潔癖症


 イドルフリートは乱暴に髪を掻き毟った。慌ててリボンを解き、改めて手櫛で風に靡く金糸を集め直す。きっちりと櫛を用いて結んだ時よりは劣るが仕方がない。これもすべてコルテスが悪いのだとイドルフリートは息を荒く吐いた。
 なぜ自分でなければならなかったのか、他のクルーたちでも問題なかったのではないか。否定される理由を十分理解していながらイドルフリートは苛々と負の感情を積もらせていた。自分が船にいない今、船内がどんな惨状になっているのか気が気でならない。まかり間違ってもその惨劇を想像してしまわないように、直接関係のないコルテスに対しての不満をつらつらと並べ、自身に言い聞かせる。手際が悪いから始まり気づけば自分より身長が高いなどと詮無いことにまで発展していたが、イドルフリートはまだまだ止めるつもりなどなかった。

 船の男というものは船を大事にはするが、反面美しく保とうとするタチではない。もちろん貴族や高貴な人物を乗せるための客船に乗る男たちは別だろう。命を、仲間を預ける船を徒に傷め自ら墓穴を掘るような輩は船に乗ることすら許されないだろうが、それでも潮風や海水に常に晒されるそれらから潮を除こうとする者までは滅多にいない。むしろ貴重な真水や布をつぎ込むようなら叩き出されてしまっても文句は言えないというのに、何も言わずに自由にさせてくれるクルーに感謝しなければならない。頭ではわかっていても、イドルフリートにとってその妥協は苦痛でしかなかった。
 普段とり憑かれているようだと揶揄されるほど熱心に掃除に勤しむイドルフリートがいる所為か、コルテスを含め他のクルーたちは率先して掃除や洗濯をしようという動きは見せない。半ば我儘の域にまで達していると自覚している。いつもの高飛車な口調で注意したり促したりはするものの、無理やり強いるような真似はできないし、許されはしまい。

 私が掃除しなければあの怠惰な低能どもはよくて洗濯物、酷ければ埃も蜘蛛の巣も溜め込んでしまうのだから、とまで悪態の延長で思い浮かべてしまい、イドルフリートは動かしていた足を止めてしまった。

 全身が震えあがり、歯が鳴っていることすら他人事のように感じる。必死に浮かんだ悪態を掻き消そうと目を強く瞑ったが、真っ暗になった視界でイドルフリートの意に反し想像が絵筆を手に取ってしまった。
 文面だけでも寒気がするというのに、豊かな想像力はイドルフリートに容赦などしないらしい。一歩踏み出しただけで巻き起こる白い風、汚水になり果てた海水が描く足跡、蜘蛛の巣と海鳥の糞でデコレートされた船内、黴や苔藻の臭いに支配された薄暗い倉庫……。悲惨な事態が我が物顔で脳裏を占めていく。波の音を不躾に掻き消していく蟲の蠢く音、鼠が傍若無人に駆け巡り倉庫の貴重な食料や商品を無残に食い荒らす音。震える手で耳を強く抑えるが、脳裏を直接蹂躙する音が止むはずもない。むしろ僅かに残されていた街の喧騒が遠ざかり、より一層一撃が深く食い込んできた。

 息苦しい。酸素に手を伸ばそうと口を開くたび、逆に呼吸を奪われていく。まるで暗く狭い水底に堕とされ閉じ込められてしまったかのような感覚。苔生した石や嗅ぎ慣れない腐った真水の臭いに囚われている気さえする。不快で仕方がないそれに溶け込むように沈みゆくのは自身の躰だというのに、指一本どころか瞼すらも動かせそうにない。

 恐怖に行動の一切を止めてしまったイドルフリートの中を、彼自身の想像が   、支配していった。



「イド、これも頼んで――」

 コルテスは途中で言葉を呑みこんだ。そうだ、今イドルフリートには他の用事を頼んでいた。陸に上がりたがらないというよりは船から離れたがらないイドルフリートの説得にかなりの時間を費やしたことを思い出し、コルテスは汗と潮で着心地の悪くなったシャツをベッドの上へ放り投げた。
 イドルフリートが病的なまでに清潔好きなことは周知の事実である。少しの汚れすら許せないらしく、会議を中断させてまで汚れを拭い去ったこともあった。幸か不幸か、パトロンとなる貴族たちと相見える時は目立った粗相を犯してしまったことはない。ただの貴族の意地による持成しであろうが、イドルフリートがいなければ華美といえるほどまでに美しく整えられた環境に感謝することなどなかっただろう。羽を伸ばすようにリラックスするイドルフリートは、その時の装束と海に似合わぬ美しい風貌の所為もあるのだろうが、ホストであった貴族たちよりもよほどその空間に相応しいように見えた。

 長年航海を共にしているのだから、そのイドルフリートの影響を他の船乗りたちが受けないはずがない。コルテスとてそのうちの一人である。普通の船乗りが平気で着続けるようなシャツであっても、この船のクルーたちなら換えを用意し洗濯するだろう。現に、今コルテスがベッドに投げやったシャツは泥に塗れているわけでもなければ、酒を浴びて臭いを放っているわけでもない。
 流石に陸の屋敷の一室と見紛うほどまでに清潔さを保つ者はいないが、他の船乗りばかりの船と比べるとコルテスの率いる船は過剰なほどの清潔さを誇っている。所用で他の船に乗り込んだことがあったが、一瞬その不潔さに辞退して引き返そうかと思ってしまったほどだ。
 毒されているのだろうか、とその字面との矛盾にコルテスは苦笑を浮かべる。普段なら日に一度か二度の洗濯に勤しむイドルフリートについでと頼むのだが、その本人がいない以上もののついでというわけにはいかない。港に船を寄せているため天候や海に気を配る必要がない上に、まだ出港までは日があるのだから、どうせなら他のものと一緒に洗ってしまおうかとコルテスは簡易チェストを開ける。目に見えない汚れというものもあるらしいので、直接肌に触れるものはすべて洗っておこうかと乱雑に取り出して手近な籠にまとめ入れた。一抱え分になった洗濯物をもってデッキに顔を出してから、ふとコルテスはその手法を知らないことに気がつく。

「適当に、水にでもつけておけばいいのか……?」
「あっ、船長! それ、洗うんですか?」

 かけられた声に振り向くと、どうやらそのクルーも洗濯するつもりらしく小さな籠を持っていた。コルテスほど換えの衣類をもっているわけもないので、その量は少なくそして汚れも幾分酷かったが、やはり普通の船乗りが洗濯を思いつくには少しばかり清潔すぎる。
 否定する理由もないのでコルテスが頷くと、そのクルーはどこか安堵してコルテスに訊ねた。

「よかった……。日頃洗濯はすれどもその道具とかってイドさんが全部用意してくださってたんで俺たち全然わからなくって。よかったら少しばかり貸していただけませんか? 船長のももちろん洗っておきますんで」
「……待て、何をだ?」
「何をって、石鹸とか、です」

 コルテスが道具を持っているはずだ、と疑っていないのだろう。クルーは申し訳なさそうにしながらもコルテスが石鹸を差し出してくれるのを待っていた。しかし生憎コルテスはその道具どころかどのように洗濯がなされるのかすら想像もつかない。イドルフリートはもちろん、屋敷にいた時も母か召使が洗濯していたのだろうが、好き好んでそれを観察していたわけでもないので見当すらなかった。石鹸という名詞に覚えはあれども、「とか」に集約される他の物品に覚えなどあるはずもない。

「いや、俺も持ってなくてな……。お前ら、イドがどこから出してきてどうやって洗濯してるのか知らないのか?」
「それが……、いつも何だかんだでイドさんがやってくださるので」

 ある程度汚れを落とすところまではできる、という者がちらほらはいるようだが、その者たちも最後にはイドルフリートが手出ししているらしい。最初の汚れがありありと浮かんでいる状態では手どころか一瞥すらしないらしいが、目に見えている汚れが取れただけで洗濯を終わろうとするとイドルフリートが許さないのだとか。結局最初から最後まで己の手でやり遂げた者は今ここにいないらしい。視線を少しずらすと、恐らく同じ状況におかれているらしきクルーが数人いた。

「あー……、わかった。丁度もうすぐイドも用事が終わる頃だろうから、急かしがてら迎えに行って来る」
「あ……。すみません、船長」
「いい、俺も困ってたからな」

 目下の者が迎えに行ったところで、緊急事態でもないのだからイドルフリートはまっすぐ帰りはしないだろう。居心地の悪そうにするクルーに見送られ、コルテスは船を下りた。



「イド?!」

 思いの外イドルフリートは船のすぐ近くにいた。予想していたよりも早く用事を片してくれたらしい。しかし、見つけたイドルフリートは尋常ならざる様子で倒れ込んでいた。
 普段なら立ち入るどころか目をくべることすら厭いそうな薄暗い路地裏。どこかの酒場か食堂の裏手なのか、生ごみの腐ったような悪臭が慢性的に蔓延っている。おおよそイドルフリートに似つかわしくない場所であるにも関わらず、積み上げられた木箱や袋に埋もれるようにして散らばる金糸を見つけられたのは、偶然の成すところが大きいだろう。
 その大声に驚きコルテスを振りかえる人影は多かったが、コルテスは気にもかけずイドルフリートに駆け寄り両肩を掴んで軽く揺す振ろうとした。

「おい、イド?! どうしてそんなところに……、っ?!」

 一刻でも早く救い出そうとイドルフリートに触れた手は、すぐにその異常な体温をコルテスに伝えた。ひやりと死体のように冷たく、露わになった顔は蒼白い。目を見開き血の気が引いたコルテスを辛うじて繋ぎとめたのは、微かに感じられる不規則な呼吸音だった。正常とはとても言い難い、空気の漏れ出るような微かな音が聞こえる。痙攣のように時折不気味に震える体が痛ましいが、確かにまだそこにイドルフリートが「いる」ことだけはわかった。

「イド、イド!」

 強く叫ぶように呼びかけながら揺すると、微かにイドルフリートの瞼が動いた。そのままゆっくりと開き、焦点の合わない瞳が虚ろにコルテスを映し出す。なんとか自身の意思で動いたイドルフリートに安堵するのも束の間、コルテスが息を吐くよりも早くイドルフリートは目を見開き弱々しいながら必死に後退りコルテスと距離を取った。がたがたと騒がしい音をたてて乱雑に積み上げられていた木箱や瓶が崩れ落ちるが、それすら目に入っていないらしい。青ざめた顔で頭を振りながら、イドルフリートは必死に口走る。

「いやだくるなやめろちかづくなふれるないやだいやだいやだわたしはなにもしていないいやだもうやめてくれやめろたのむいやだやめてやめてくださいいやだちがうわたしはなにもしらないなにもできないなにもしていないいやだちがうわたしじゃないくるなやめていやだふれるなはなさないでいやだいやだいやだやめろやめてくれはなすなはなさないでたのむいやだくらいこわいおち、」
「イ、ド……?」
「ッ――――!」

 コルテスが手を延ばすと、イドルフリートは吸える限りの空気を全て吸いこんで委縮する。そのまま自身に延ばされた腕以外の一切を視界から遮断してしまったかのように視線を留めた。何もできない無力な子供のようにガタガタと震えており、その腕がコルテスのものであるととても認識できていないようだったが、コルテスはそれに気づかずただぬくもりを与えようとイドルフリートを引き寄せてしまう。

「イド、一体何があったんだ……?」
「――――――――」
「……? ?! イド?!」

 弱々しかった呼吸は咳に塗れ激しく苦痛なものへと変化してイドルフリートを苛んだ。虚ろな瞳は映すものを定めぬまま生理的な涙に濡れている。さすがに過呼吸だと気がついたコルテスはともかくイドルフリートの口を塞ごうと再び手を延ばすが、もちろんイドルフリートが抵抗しないわけがない。怯えたまま我武者羅に逃げを打つイドルフリートの両手首をなんとか壁に捕らえると、コルテスは迷う間もなく自身の口でイドルフリートの呼吸を制した。
 苦痛で悶えるイドルフリートを無理矢理壁に押さえつけたまま呼吸を整えさせる。ゆっくりと肺から取り出した空気を口内へ押し込み、吸気をせがむイドルフリートを無視し、意識して長く穏やかに呼気を奪い去る。数分繰り返すうちにイドルフリートの呼吸は穏やかなものになり、蒼白としたままではあるものの、虚ろだった瞳が焦点を取り戻した。イドルフリートが抗わないことを確認しながら、ゆっくりと拘束を解いていく。名残惜しくもコルテスが唇を解放すると、イドルフリートは俯いて視界からコルテスを追い出してしまった。

「……」
「イド」
「…………」
「 イ ド 」
「……何でも、ない」
「っ、何でもないはずがないだろう?!」

 つい叩きつけるように叫んでしまう。これほどまでに弱りながらも自分を頼ろうとしないイドルフリートの気丈さに、そして自身に向けられる信頼の薄さにコルテスは苛立った。びくりと大きく肩を跳ね上げたイドルフリートを見て、コルテスはさっと青ざめ謝罪を口にする。常のように揶揄の種にすることも上げ足を取るようなこともせず、イドルフリートはなにも見なかったのだとばかりに視線を逸らした。心配が空回りし悪循環を起こさないよう、努めて優しく穏やかな声を出そうと試みるコルテスの出鼻を挫き、イドルフリートはか細いながらも否定を許さぬ声を発する。

「何も、訊かないでくれ給え」
「…………」
「頼む」
「…………そうか」

 コルテスは俯いたままのイドルフリートの髪を撫でようとして、持ち上げた手を止めた。碌に掃除もされていないであろうこの路地裏の壁にも地面にも触れた手で美しい金糸を汚すことが許せなかったからでもあったが、視界から消えた腕に再びイドルフリートが肩を跳ねさせた所為でもある。
 何事もなかったかのように船へと連れ帰りクルーたちとの口約束を果たしたかったが、流石にそれが酷過ぎることなどわかりきっていた。幸いまだ停泊期間を過ぎてはいない。イドルフリートがあえて陸ではなく船内で寝泊まりしていることを知ってはいたが、その理由までをしっかりとは知らないコルテスは、囁くようにイドルフリートに提案した。

「近くに、湯を使える宿を取ってくる。クルーたちにも話をつけてすぐに俺も戻ってくるから、先に湯浴みしてこい」
「……?!」

 冗談じゃない、発端を思い出してしまったイドルフリートは更に顔色を悪くする。しかし、精神的な疲労もあってか思うように動かせない声と体は容易に驚愕と恐怖に囚われてしまった。驚いていることだけは読みとれたのだろうコルテスは、イドルフリートが動かないのではなくどうやら動けないことに気がつきそっと抱き上げる。もとから華奢ではあるが、酷く弱っている今不用意に力を加えれば壊れてしまいそうでコルテスは内心怖々していた。仮面でも着けたかのように変化のない表情に、コルテスは気が引けているのだろうかと誤解する。

「お前一人が船番なわけじゃない。たまには交代したって誰も文句は言わんだろう」

 だから按ずることはないとコルテスは言い聞かせるが、終ぞイドルフリートの瞳に揺れる恐慌には気づかなかった。



- - - - -
食い違った歯車は組み合わずに、