リボンの話
やはり、金には紅だろう。コルテスはもう何度目かわからないような決意をしながら潮風に靡く金髪を目で追った。
潮風というものはあまり髪に優しくはない。水気を含んだまま外気に晒すだけでも質を損ねるというのだから、船乗りが髪に気を使ったところで暖簾に腕押し糠に釘、絹の服を与えても猿は猿だろう。
しかしイドルフリートは違うようだった。手入れしている姿を直接目にしたことがあるわけではなかったが、その風に靡く金糸がすべてを物語っている。令嬢ですら嫉妬しかねないその髪は、試したことはないがきっと素晴らしい指通りを誇るに違いない。さらさらと指の間から逃れる様がありありと想像できる。
よく動き回るイドルフリートの後を追うその髪は弧を描き従順に彼の軌跡を辿っている。コルテスはイドルフリートの髪を殊更気に入っていた。
だがそれを追うコルテスの目線は穏やかなものではない。確かに手にしてみたい衝動には駆られていたが、まだ自制が効く程度のものだ。気に食わないのはもちろん彼の髪でも彼自身でもない。その髪を束ねる、解れさえ見える質の悪いリボンだった。
長年愛用しているのか解れや繕い痕が見えるそれも元は市販のものだったのかもしれないが、決して少ないとは言えない継目とくすんだように見える染みついてしまった汚れの所為で端切れのようにしか見えない。遠目に見てすらそれなのだから、まじまじと近くで見れば更に悲惨なのだろうことは想像するまでもない。何より気に食わないのは、そのリボンが緑色であるところである。
金に緑が合わないとは言わない。確かにイドルフリートの瞳は青く時に緑に輝くこともあるのだから、そう思えば似合う色だと妥協してもいいだろう。しかし、妥協するにはあまりにもその質が悪すぎる。髪も服装も何時貴族の晩餐会や舞踏会に放り込まれても構わないほど常に整えられているというのに、場違いなリボンがすべてを台無しにしている。灰かぶりが魔法使いに硝子の靴だけ与えられ、みすぼらしい姿のまま王子様とダンスを踊れるか否かと問われれば、もちろん否だろう。これだけ好条件が揃いながらそのすべてをぶち壊したリボンは、視点を変えればなかなかのつわものなのかもしれない。
しかしだからと言ってこれは愚策だったとコルテスは懐にしまってある細長い箱を思い浮かべる。そう厚さのない箱の中には、希少価値の高いシルクで織られた深紅のリボンが入っている。その使用途などわざわざ説明するまでもないだろう。
購入を思い立ったのも実際に購入したのもコルテスであったが、それまでにはかなりの勇気を要した。まだイドルフリートを無理矢理と言っても過言ではない方法で船へ引き入れてから日は浅い。親交を深める意味で贈り物は実に勝手がよかったが、果たして男から男への贈り物にリボンとはどうなのだろうか。口の堅そうなクルーを数人選び日を変え場所を変え問い、全員がそのコルテスの贈り物に称賛の言葉を零したので購入を決めたものの、いざ実際に贈るとなるとどうにも尻込みしてしまう。商人の多くの貴族令嬢に人気だという売り文句も一役買っていた。
間に人を立たせた方がいいのだろうか。しかし、それでコルテスよりも先にその人物と信頼関係を築かれてしまっては贈り物を決意した意味がなくなってしまう。どうしたものかと頭を抱えたが、ふと水分補給にラム酒を呷るクルーの姿に妙案が浮かんだ。日和も丁度良いことに、出港直前の掃除が終わろうとしている頃だった。
「……皆! 終わったら酒場で呑み明かすぞ! 労いに俺の奢りだ!」
わぁっ、と野太い歓声が上がる。俄然気力が湧いたようで皆目の前の残された数少ない仕事に打ち込み始めた。もちろん懐は痛いが仕方がない。作業効率の向上というおまけまでついたのだからと言い訳して、コルテスは翌朝に響かぬようある程度の節度を続けて約束させる。了承と言うにはあまりに浮かれ過ぎて信用ならない返事がちらほらと返る中、イドルフリートが楽しそうに口角を上げてコルテスを見ていた。
「中々寛大な振舞いじゃないか。何かいいことでもあったのかい? 教えてくれ給え!」
「わざわざ言うほどでもないさ。それはそうと、何でお前はそんなに上から物を見ているんだ……」
「これはこれは。コルテス将軍、お許し願いたい」
人を食ったような笑みを浮かべながら口先だけの謝罪を紡ぐ。短い付き合いであるというのに、イドルフリートの高飛車な態度には慣れてしまった。拗ねたようにも見える苦笑を浮かべて見せるが、相変わらずイドルフリートは揶揄の種でも転がっているとでも思ったんだがなどと零しているのだから手に負えない。酒に呑まれでもすれば少しは態度も変わるものなのだろうか。そう言えば酔わせたことはあれどしっかりとその酔った姿を見たことはなかったな、とコルテスは宵の宴に期待を一つ加えた。
宴も酣、ちらほらと酒に弱いクルーたちが潰れ始めた頃、ようやくイドルフリートにも目に見えて変化が現れた。頬を紅く上気させながらもしっかりとした口調で普段通りの態度を取り続けていたが、流石に度数の高い酒を常より速いペースで勧められては敵わないらしい。段々と視線がふらふらと彷徨うようになったかと思えば、きつく強い光を放っていた瞳がとろけるように半分ほど閉ざされていた。頬だけでなく体まで火照り出したのだろうか、時折暑いなどと呟いている。
対してコルテスはほぼ素面のままであった。緊張している方が酔いも回りやすいだろうに、どうしてか顔が火照る程度で意識はしっかりしている。手を延ばせば金糸を存分に味わえる位置にあるが、理性がスクラムを組んでがっちりと押しとどめていた。
「こぅてす、じろじろ見るな……。やめたまえ」
「あ、ああ。否、リボンが気になってな」
呂律のまわりきらない声に思わず本音で返してしまい、コルテスはしまったと口を押さえた。思ったよりも自分にも酔いが回っていたらしい。いくら悔やめど過去の発言を取り消せるはずがなく、イドルフリートは不思議そうに閉じかかった瞳を僅かに丸くした。気を悪くしただろうか、しかしまだ気分を害すだろう発言をしていない筈だとコルテスは自身に言い聞かせる。ゆっくりとコルテスの言葉を咀嚼していたらしく、数秒の間をおいてイドルフリートは嬉しそうに破顔した。
「そうだろう、さすがだ、こぅてすしょーぐん! やはぃ君はそこらのてーのーとはちがって見る目がある!」
「そ、そうか? いや、クルーの何人かも同じようなことを言っていたぞ?」
「なんということだ! やはり君のじんせんはすばぁしい! いや、私をえらんだ時点でしょーめーされたもどうぜんだったが!」
酷く満足してイドルフリートは何度も頷いた。そうか、やはり本人も気にしていたのか。航路を共にするようになってから常に船に尽くしてくれていたような気もするし、もしかしなくとも買い換える時間がなかっただけなのかもしれない。なんと間の良いプレゼントを用意したものだと、コルテスはイドルフリートの賛辞を受けながら自分の過去の勇気と行動を褒め称えた。わざわざ宴会を用意する必要もなかっただろう。そう思って懐に手を忍ばせると、イドルフリートはそれを阻むかのようにコルテスの両手を掴んで無理矢理正面を向かせた。
「イ、イド?」
「君の目にとまったこのリボンはな、なんとわがむすめが作ってくれたんだ! あんなにおさなく小さな手なのに、いっしょうけんめい針でぬう姿にもんぜつしたものだ! またかわいらしいことに私におそろいだと言ってさしだすのだよ! もちろん、よろこびのあまり思わずだきつぶしてしまったのではないかと心ぱいしてしまうほど抱きしめてやったんだが、またそこで花のようにわらうんだ!」
「あ、ああ……。か、可愛らしいな」
「そうだろう、そうだろう! そのいじぁしさもさることながあ、センスもすばぁしいと思わないか!」
「ああ、そ、そうだな。よく似合っている」
「このりぼんほど私に似合うものなど、そうそうない!」
光るような、花が綻ぶような笑顔でイドルフリートは何度もコルテスとリボンを褒めたと思しきクルーを称賛する。珍しい幼くすら見える笑顔と素直な褒め言葉をうっかり耳に目にしてしまったらしい周囲のクルーが、何事かと少し遠目に見守っているのがよくわかった。握りしめられた両手は、どこに隠されているのかわからない強い力でしっかりと固定されている。中途半端な位置まで取り出してしまったプレゼントボックスが、イドルフリートが興奮に手を握り返すたびに存在を主張する。
嗚呼、これは報われないな。コルテスは苦笑いにも気づかぬほど上機嫌なイドルフリートを見つめながら、綺麗に包装されたリボンの行く末を憂いた。
コルテスは元々上流階級の人間である。船乗りになったと言えど将軍である彼は他とは地位も格も違う。身の回りの世話に気を取られる必要がない生活を長く続け、そして多少の我儘は黙認される職に甘やかされている所為か、自然コルテスはあまり自ら身の回りの世話をしなかった。
しかしそれを許されるのは陸の上で変わらぬ地位と権力、財力を振るう貴族、王族たちのみである。最近では極少数の商人たちも例外として含まれていたりはするが、少なくとも海の上で許されるほど甘くはない。下っ端ほど従事する必要もないだろうが、ただ息をしフォークやナイフより重いものを持たずにいられるはずがなかった。
将軍であり船長の部屋であるそこに立ち入る者は少ない。機密の溢れかえるそこに不用意に立ち入られても困ることは事実だったが、イドルフリートとしてはもう少し立ち入る人物を増やしてもいいと強く思った。それほどまでに、目の前の惨状は凄まじい。
「引き出しの中は空なのか……?」
時化の後だとでも言われた方が納得できたかもしれない。美しいとは言えないが元々所持品が少ないことが幸いし放り出されていた上着やシャツを掛け直す程度で片付いたベッド周りとは違い、そこは食べかけのミルフィーユのような目も覆いたくなるような事態に陥っていた。
数々の海図で構成された山はそのところどころから契約書か何かの羊皮紙を飛び出させ、コンパスや万年筆といった小物も粗雑に放り出されている。何かの参照にでも使ったらしい本は開きっ放しのまま放置され、参考にならなかったのであろう本たちはまた別の一山を築いていた。継ぎ足しの鯨の脂は栓が開かれたままランプの傍に放置されており、供になったのであろう酒が入っていたらしい瓶も空になった姿を虚しく晒している。
「わかっている。ああ、わかっているさ……!」
その海図が貴重であることも、契約書や誓約書をあまり多くの目に触れさせない方がいいことも、精密機器であるコンパスを扱いを心得ていない者に触れさせてはならないことも、本棚に納めるべき位置とコルテスの夜の仕事の供の銘柄を覚えているのは自分だけだということも!
叫びたくなる衝動をなんとか抑え、ひとまず手前の本で構成された山を崩しにかかる。数が多いだけで直す場所などまさに手に取るように把握しているのだから、単なる単純作業だと言い聞かせた。無心になるように努めればさほど手間と心労のかかる作業ではない。問題は、紙で構成された山だ。
本が元いた場所に収まったことで空いたスペースにひとまず二抱え分ほど紙を移動させる。皺にならないようにだけ気にかけたが、もうすでに余計な折り目が入っているものも多いだろう。思わずため息を吐いて残りの山を見ると、切り崩されたことで露わになった一角に不自然な箱が一つ突き刺さっていた。
「……何だ?」
特に危険物なわけでもないだろうとそれに手を延ばす。細長く小奇麗な箱はちょうど万年筆を入れておくのに丁度良い大きさだろう。
自分用に、それも仕事用に買ったとすればあまりに贅沢な包装に見える。勤勉な令嬢への贈り物として買ったは良いが、そのまま忘れてしまったのだろうか。忘却の彼方に流されてしまっているであろうその箱をイドルフリートが手にしたところで、コルテスは気がつかないに違いない。丁度ペン先が消耗して書きにくくなっていたことを思い出し、イドルフリートはありがたく頂戴することにする。
特に深い意味もなくただ一目見ておこうと何気ない気持ちで蓋を開けると、そこに収まっていたのはイドルフリートの予想とは違うものであった。
「…………リボン?」
綺麗に柔らかく折り畳まれたリボンは、大層にも柔らかい布に包まれてそこに鎮座している。よく熟れた林檎のように鮮やかで艶やかな紅に染められたそれは、手に取らずともその品の良い光沢で質を知らしめていた。規則正しい縫い目は解れを防ぐものにはとても見えず、装飾の一種としてそこで輝きを放っている。
「流石将軍……。この程度のものなど、贈りそびれて忘れ去っても痛くも痒くもない、か」
否、これほどまでの質を要求する交際相手の方を褒めるべきなのだろうか。
湧きあがる苦々しさを皮肉として吐きだして、イドルフリートはリボンを手に取った。思った通り心地よい手触りで、放置されていたにもかかわらずその質を損なっているようには見えない。滑らかではありながら決して下品な光沢はなく、誰の目から見ても一級品だとわかる品だった。
先ほど皮肉った交際相手を思い浮かべ、コルテスにこれほどまでの品を用意させられたことに嫉みに近い何かを覚える。熱心に海に、新大陸に打ち込んでいる青年だと思っていたのだが、思い違いだったのだろうか。
(単に、私がいると……自分に回る仕事が減るから、だったのだろうか)
ぎゅ、と強くリボンを握り込む。痕がついてしまったのではないかと慌てて手を開いたが、リボンは何事もなかったかのようにイドルフリートの掌で晒されていた。まるで、自分が何をしようと無駄な足掻きだと告げられているようで腹立たしい。
「……馬鹿馬鹿しい。放置している時点で、もうどうでもいいことなのだろうし」
己の髪を纏めているリボンの端を優しく引く。するりと解け手に収まったリボンはもう何度も繕い直した所為で酷くみすぼらしい姿になってしまっていた。今まで通り変わらずに着け続けていたいが、これ以上酷使するのは無理なのかもしれない。万が一失くしてしまいなどすれば井戸にでも飛び込みたい気分になってしまうだろう。換えが必要なのは、万年筆もリボンも同じだった。
「忘れているのなら、借りていても問題あるまい」
イドルフリートは小奇麗な小箱を乱暴にゴミ箱に放り込み、深紅のリボンで髪を纏め直した。
「あ、船長!」
コルテスは駆け寄ってくるクルーに気がついて振り向いた。真面目で正直な、将来が楽しみなクルーの姿にコルテスは首を傾げる。仕事中に無用に声をかけるような人物ではなかったはずだが、目立った支障は見当たらない。その上、駆け寄る姿は嬉しそうで益々コルテスは疑問符を浮かべた。
「船長、やっぱり渡してたんですね! すっごくイドさんに似合ってましたよ!」
「……何の話だ?」
「とぼけないでくださいよ!」
楽しそうなクルーはけらけらと笑いを浮かべる。コルテスと話していることに気がついた他のクルーたちも、その話題を知るや否やイドルフリートに似合っていただのセンスがいいだのわけのわからない称賛を浴びせ始めた。まったく心当たりのないコルテスは、やはり首を傾げながらその疑問を口にした。
「だから、何の話なんだ?」
「イドさんのリボンですよ!」
「……イドのリボン?」
解消されたかと思った疑問は、更に疑問を生んだだけだった。何故イドルフリートのリボンについての褒め言葉をコルテスが受け取っているのだろうか。眉を顰めようとしたときに、ふと以前イドルフリートのためにリボンを購入したことを思い出した。
そう言えば幾人かのクルーに相談を持ちかけていた。そしてその数人はコルテスとは違い今までしっかりと覚えていたのだろう。しかし、コルテスは結局リボンを渡さなかったはずだ。それに、確かに最近イドルフリートはリボンを換えたようだったが、その理由は自分にない。
「娘のリボンは保存用にしたから、常用のリボンは自分で買ったと言っていたが?」
「え? でもあれは船長の選んだリボンですよね?」
話していたクルーは周りの仲間に同意を求めるように声をかける。直接話を知らないクルーは成り行きを見守っているらしかったが、確かに渡す前に似合うだろうかと訊ねたクルーは自信満々に頷いた。
「間違えませんよ。あれはあのとき船長に見せていただいたリボンで間違いないです!」
「……あ! もしかして、船長見たことないんじゃないか?」
「確かに、たまにしかつけてないもんな」
わぁわぁと外野で会話が始まる。いまいち状況が理解できないが、どうやらとても不思議な出来事によってコルテスが選んだリボンはイドルフリートの手に渡っているらしい。
「もしかして、偶然じゃなくてイドさん船長がいるときに着けてない、とか……?」
収拾がつかなくなるかと思ったが、クルーの一人が放った言葉に吸い込まれるかのように音が消え去った。そして洪水のように俄かに騒がしくなる。
「そりゃあもったいない! 船長、今がチャンスです! イドさん今日はあのリボンしてましたから!」
「本当見事でしたよ! 鮮やかな赤が金髪に映えて、もうどっかの絵画かと思うほど!」
「普段のリボンの色まで換えたのも船長とお揃い!とかだったりして!」
「いやあ、やっぱり金に紅ってすごく合いますね! 船長の言うとおりでしたよ」
「そう言えば船長より早く帰るから問題ないとか言ってたよな!」
「ってことは換えの普段用のリボン持ってないってことか!」
「あっ! 船長、ほら、あそこに!」
「この低能どもが、一体何を騒いでいるんだ。静かにし給え!」
騒ぎに眉を顰めていたイドルフリートに気づいたクルーたちが、まるでモーゼを阻んだ海のように綺麗に二手に分かれて道を作った。多少距離はあれど遮るもののない今、コルテスがイドルフリートの姿を見とめるには支障はない。それはイドルフリートにとっても同じだったようで、急に対面せざるを得なくなった状況を訝しんでいるらしい。状況のつかみ切れていない視線は胡散臭げに周りを捉えるが、逃げを打つだろうイドルフリートのために人の生垣で退路を鎖すクルーたちがわざわざ説明するはずもなかった。
イドルフリートは首ごと回して周囲を窺っているのだから、当然彼の御自慢の金糸は華やかに宙を舞う。そしてそれを纏めているリボンが見覚えのあるものだと確信したコルテスは、にやける口元を必死に律しながら指摘してやることにした。
「イド」
「何だ! 君まで一体何のつもりだ? こんなところで油を売っていないで、船の手入れでもしてい給え!」
「イド、お前そのリボンどこで手に入れた?」
「リボン? ああこれか、これなら君の部屋を―――― っ!!!!」
吐き捨てるように反射的に言葉を投げつけると、イドルフリートは途中でその内容に気がついたのか勢いよく続きを呑みこんだ。真っ赤に染め上がっていく顔とは対照的に、瞳は羞恥で若干常より潤みを帯びている。はくはくと意味もなく口を開閉させ、最早笑みを隠せていないコルテスを音が出そうなほど強く指差して弾劾した。
「ももも、元はと言えば! 人に渡すものを忘れて放置していた君が悪いんだろう?! 否、そもそも君が人に掃除をさせるような習慣を身につけなければ問題なかったんだ! す、捨てるには勿体無いから私が貰っただけだ! せせせせ責めるくらいなら君が反省し給え!」
「否、元からお前に渡そうと思っていたから構わないわけなんだが、」
「――――――ッ!」
イドルフリートは湯気でも出そうな勢いで更に顔を赤くする。分が悪すぎると踵を返しコルテスの前から逃げ出そうとするが、こういうときには何故か強いクルーたちが許しはしない。退け退かぬの押し問答にしばらく打ち込んでいたが、どうやらようやく諦めたらしいイドルフリートは開き直って泣き笑いを浮かべながら高飛車な口調でコルテスを指さし言い放った。
「ふ、ふん! これはか、借りただけだ! 死ぬまでに返せば問題ないだろう?! 大人しく貸していたまえ!」
→†→†→†→†→†→†→†→
来る大きな航海に備え、国内でも有数の港に船を寄せ皆一様に準備に奔走している時のことだった。各々の故郷に別れを告げ、そして長旅の準備を整えて再び集うという命令ともいえぬ命令を出し、コルテス本人もしばらくぶりとなる屋敷に足を運んだ。元々何だかんだと理由をつけて屋敷を出ていたことが多かった所為かあまり懐かしさや名残といったものは覚えなかったが、他のクルーたちは異なるのだろう。船に一番早く帰ったのはコルテスだった。
以前とは違い少し多めの水や保存食、果実の類を購入して船に積み込んでいく。慣れるための数度にわたる航海の甲斐あってか、早めに戻っていたクルーたちは何の滞りもなく作業を進めていた。しかし、滞りがないだけで早いわけではない。普段はもう少し何かと作業が早く済んでいたような気がして記憶を漁ってみると、コルテスは視界にお気に入りの金糸がないことに気がついた。
船を安全に導く航海士であるイドルフリートは、紙面だけでなく実際にクルーや船、海に対し過敏なまでに気を配っている。買い揃えた物品や仕入れた商品そのものはもちろん、船での保存場所にまで目を光らせる航海士はそうそういないだろう。本来船長が気をつけていなければならないクルーの不調や船の損傷に気がつくことも、一度や二度ではなかった。そのイドルフリートがいないのだから、常よりも作業が遅れている気がしてならないのは仕方ないことなのだろう。誰かが手間取っているわけでもないし手を抜いているわけでもない。
改めてイドルフリートの讃えられていなかった功績を実感して、コルテスは舌を巻いた。やはり、相当良い拾いものをしていたらしい。イドルフリートを無理にでも引きいれた過去が如何に正しいものであったか噛みしめると同時に、コルテスはイドルフリートの帰りを期日までまだまだ時間があるというのに今か今かと待っていた。
酒の肴に聞いた話では、イドルフリートの家はこの国から船で少し進んだ異国の森の中にあるらしい。血の繋がった娘と繋がらぬ娘、そして二人目の妻が暮らす井戸の近くの暖かい一軒家だという。イドルフリートがその家で寝泊まりしたのは数えるほどしかないらしいが、決して家族を愛していないわけではないと豪語していた。大事に仕舞われている彼の実子のリボンもそれを証明している。今回散開する際に、コルテスは然程大きくないイドルフリートの荷物がすべて収まっている鞄にそのリボンが結ばれていたことを覚えていた。
(どうしたものか……)
イドルフリートの住まいの記憶は決して最近のものではない。かなり古い部類になるそれをわざわざ掘り当てたのにはわけがあった。
もう集合、延いては出港まで日がない。期日を守らないクルーがいることも悲しいながら事実であり、本来なら捨て置くべきなのだろうがコルテスはある事情の下今回は例外としてクルーとして受け入れていた。その事情こそがイドルフリートにある。
一時解散したとはいえ、連絡を取り合わなくなったわけではない。末端というべき部下でさえも故郷に着いた時と発った時、他にも遅れそうな者たちからの連絡は入っていた。手紙と言えどやはり人を介すものであるから少々時間はかかるが、本人が直に告げるよりも早く耳に入ることは確かである。多少のタイムラグはあるだろうが、それでもコルテスはクルーの大体の行動を知りえていた。
しかし、イドルフリートの連絡だけが一向にコルテスに届いていない。ドーヴァーを越え更に東に行くのだと北へ向かうイドルフリートを船着き場で見送って以来、コルテスは姿も声も、そして新たな筆跡すらも目にしていなかった。
今更イドルフリートを置いていくわけにもいかない。だが今まで何の連絡もないというのはただの面倒で済まされる話ではない。期日まであと数時間となった時点で、コルテスの不安は酷く大きく膨張していた。
「……少し、延期してもいいだろうか」
どうせ長い長い航海なのだ。今までの月や週、日で数える航海とは大きく異なる。小さな差異が大きな歪みを生むこともあるだろうが、その辺りの調整は今回出港を遅らせる原因となったイドルフリートに埋め合わさせるか組み換えさせるかすればいいだろう。
コルテスはクルーに旨を伝え、記憶を辿るようにイドルフリートが進んだであろう帰路に足を踏み入れた。
見知らぬ森。昼間でありながらまるで宵闇に包まれているかのように薄暗いそこを、コルテスはただ淡々と進み続けていた。イドルフリートの雰囲気とはあまりにも異なる湿っぽい森は、どこか異邦人を拒んでいるような気さえする。加えてどんよりとした沈んだ空気が、どこか悲しみにくれているような印象をコルテスに与えた。
コルテスの中にあった不安はもう既に不安として形を成してはいなかった。もやのような霧のようなものであったらどれだけよかっただろうか。過ぎ去った月日と掴めないイドルフリートの安否がそれを許しはしない。不安定なものから輪郭をしっかりともったものへと成長してしまったそれを、まだただの不安にしてしまいたくて、コルテスは無表情で進み続けた。
やがて進み続けひらけた場所に出たコルテスは寂れた教会と井戸を見つける。イドルフリートの話にはなかった建造物に首を傾げるも、古びた教会と枯れているであろう苔に覆われた井戸がコルテスを呼んでいるような気がした。妄想や幻覚の類でも見えているのだろうかとコルテスは自嘲する。まだ少し距離があるそこに当てもなく歩を向けると、ふと足元に草や土ではない何かが落ちていることに気がついた。
「これは……!」
見覚えのあるそれを掬いあげる。いつぞやの、忌々しいリボン。もとい、イドルフリートの娘が繕ったという草臥れたリボンが、あれだけ気に食わなかった色を変えていた。赤、否、黒と言うべきだろうか。どっぷりと浸けこまれたのだろう、もとの若草色はほとんど残されていない。
辺りを見回せど、そのリボンが最後に結ばれていたであろう鞄とその主の姿は見当たらなかった。しかし、何故今まで気がつかなかったのか不思議なほど地面は異様な色で彩られている。染色に使われたであろう赤黒い液体が、贅沢なまでに塗りたくられていた。その液体の持ち主は誰なのだろうかと、わざわざ想像する必要などないだろう。
コルテスは頭を振って予想を振り払おうとした。自身の冷静な部分が囁く現実が厭わしい。だが、確かめないわけにもいかないだろう。赤黒い道は、コルテスを呼び寄せた古井戸までべっとりと続いている。
蓋すらされていない古井戸は、ぽっかりとその大きな口を開けていた。幸か不幸かまだ水は枯れていないようで、僅かな光を反射している水面がコルテスの目に映る。
その水面に浮かぶ藻に囚われるようにして浮かぶリボンの紅は確かに見覚えのあるもので、隙間から覗く金が何であるかなど考えるまでもない。
「期限を、守れ……。死ぬまでに返すと誓っただろう、この、低能……」
井戸は、コルテスの声を虚しく響かせるだけだった。
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最早彼には何も届かない
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