ヴェーヌスの喪失
イドルフリートは仕事には生真面目な質である。手を抜くことなど許しはしない。暇さえあれば机に向かうか波を見るかして常に気を配っていた。
今船はとある港町に停泊している。寄稿したのには二つ理由があった。まず一つは莫大な資本を持つ貴族の催す夜会に出席することである。これは船長であるコルテスでなければならず、コルテスも勿論そのつもりでいた。もう一つはまた別のコネクションとなる貴族へ手紙を届けること。こちらもそれなりに身分があり礼儀を弁え見目の良い者が出向く必要があり、前者の用事にコルテスが専念するためにイドルフリートが当たることになっていた。
丁度入れ違いになるようにして、船には船長か一等航海士のどちらかが常にいることになる。部下を信用していないわけではないが、何かあった時に責任のとれる者がいるかいないかでは大きな差が出る。随分と都合のよいスケジュールだが、コルテスは結局イドルフリートを見送ることにした。
もうそろそろ夜会の準備を本格的に始めなければならない。大したものではないがイドルフリートに引き継ぐために二、三直接伝えたいことがある。しかし、まだイドルフリートは帰ってこなかった。
「どう思う」
「どうって言われましても……」
コルテスの問いにディアスは曖昧に答を濁すしかない。イドルフリートがコルテスの出発よりも早く帰ってくるのが当初の予定であり最善ではあるが、イドルフリートが帰らずともコルテスは夜会へ出向かなければならない。二人の間で案を纏めたところでどうしようもないのだ。ディアスに無駄なことをする趣味はない。
ラム酒をごとりと脂の横へ置く。そろそろ脂を足さねばとランプを開けると、運悪く吹いた風の所為で灯りは掻き消されてしまった。他に光源となるものはなく船室内に宵闇が訪れる。
ディアスが火を貰いに行くためにドアの方へ足を向けると、ノックの音が激しく響いた。最早叩き割らんとする勢いである。扉のない部屋で寝たくなどはないコルテスは、打撃音に掻き消されないよう大声で入室許可を出した。
「あのな、もう少し静かに――」
「イドさんが!」
ああ、やっと帰って来たかとコルテスは腰を上げる。これならば早めに出たところで問題ないだろう。ランプを灯すのを最後の仕事にして、今晩中に船を出る予定を立てた。
備え付けのクローゼットに向かおうとするコルテスをディアスが小さな動作で止める。無視することもできるほど小さな動作だったが、コルテスは足を止めることにした。
「イドさんが、重体です!」
「……なっ?!」
コルテスは目を見開くと乱暴に報告に来た船員を押しのけて船室を出た。居場所など訊くまでもない。病室か、もしくは甲板だろう。夜風が冷たいから病室にいるに違いない。病室に移すことすらできないのに息を続けさせるような優しさをこの船に持ち込むことなど許されなかった。
踏鞴を踏んだ船員を支え、ディアスは静かな目でコルテスを見送った。自身はそれに続くことはせず、船員に向き直る。
「何があったんです?」
「この港の外れの井戸のところで男が倒れてるって話で。食料調達に行ってる奴らが運ぶのを請け負ったら、それが……」
「イドさん、だった。と」
つまりは詳しいことはわからないということだ。
ならばじっとしている理由などはない。ディアスはおざなりに話を終えるとコルテスと同じく病室を目指した。
コルテスは慌ただしく扉を開け放ち、そして少しだけ安堵した。少なくとも見た目ではそれほど重い怪我ではないように思える。頭に数周だけ巻かれている包帯と胸に巻かれた包帯が痛々しかったが、血痕も見当たらなければ血の臭いもしなかった。外傷は然程酷いものではないらしい。きっと報告に来た船員が必要以上に慌てただけなのだろうとコルテスは幾分か落ち着いてベッドへ近づいた。
瞼は閉ざされているが普段眠るときとあまり変わりないように思える。コルテス以外の人間の気配がある中で無防備な姿を晒しているのは珍しかったが、特に息が乱れているわけでも浅いわけでもなく単に眠っているようにしか見えなかった。
頭の怪我はどんな影響が出るかわからないから怖いものがあったが、少なくとも峠は越えているようだ。ならばこのままイドルフリートの意識が戻るのを待てばいいだけである。昏々と眠るイドルフリートの顔は苦痛に歪んでいるわけでもなく、コルテスは落ち着いてそれを待つことができる。そっと髪を撫でて額に手を当てると、僅かにイドルフリートが動いたような気がした。
「閣下、イドさんは……」
「ああ、そう心配する必要もなさそうだ」
少しだけ額が熱い。それでも精々微熱程度のものだろう。命に関わりがあるようなものとは思えない。
コルテスに遅れて入って来たディアスは、コルテスの肩越しにイドルフリートの姿を見とめて短く息を吐いていた。胸が緩やかに上下しているのが見える。動揺して話が大きく膨らんでいっただけの話だったのだろうとコルテスと似通った結論を導き出して、ディアスは部下に正確な報告を徹底させようと思案を巡らせた。
「ん、……」
「! イド!」
何度か冷えた手をイドの額に当てているうちに、ついにイドルフリートから声が漏れた。コルテスとディアスに見守られる中、ゆるゆると瞳が露わになる。
ぼんやりと焦点を掴みきれていないイドルフリートなどディアスは初めて見た。この人でもこんな瞳をするものなのかと変な感慨を抱きながらディアスはコルテスとイドルフリートを見守る。コルテスは起き上がろうとしたイドルフリートの背を素早く支えていた。
「イド……何があったんだ? お前が予定を狂わせるなんて珍しい」
「手傷も負わされるなんて。どんな悪魔に襲われたんですか」
「ベル」
ディアスは肩を竦めて答える。多少の言葉遊びくらい許してほしいものだ。しかし遊び相手にするなら万全の状態の方が面白い。ディアスはそれ以上口を開こうとはせず、視線でイドルフリートに向き直るようコルテスに促した。
コルテスは納得いかないのか不満げな様子ではいたが、渋々イドルフリートへ向き直る。そろそろ意識も覚醒しているころだろうとコルテスは考えていたが、どうも様子が違う。しっかりと周りを見てはいるものの、コルテスとディアスを認識してはいないようだった。
「イド?」
「あー……大変申し上げにくいことなんだが。それは私の名前なのか?」
「……は?」
目を丸く見開いて、コルテスとディアスは互いに顔を見合わせる。そして数秒も経たぬうちに二人は笑うことにした。
「は、はは! イド、決まりが悪いのはわかるがそれはタチが悪いぞ!」
「そう、ですよ。何です、剣の腕と一緒に冗談の腕までどっかで落としてきたんですか」
わざとらしい笑い声だったが笑わずにはいられなかった。しかしイドルフリートは困ったような笑みを変えることはない。居心地が悪そうにしてはいたが、それは羞恥心などからではなく困惑からくるものでしかなかった。
「いや、違うなら違うで構わない。生憎私にはわからないからな。好きに呼んでくれたまえ」
「……まじかよ」
「ご存知らしいが、私の名はイドルフリート・エーレンベルクというらしい」
寄港していたにも関わらず呼び集められた船員たちは、イドルフリートの言葉に皆耳を疑った。短くも浅くもない付き合いな上、イドルフリートの名がイドルフリートであることに疑問を持つことなど考えたこともない。本人がその名に違和感を抱いていることが、船員には到底信じられることではなかった。
「諸兄との関係や名は忘れてしまったが、一等航海士という役職について支障をきたすようなことはない。そこは安心してくれたまえ」
コルテスは旧知の船員たちに自己紹介とも言えぬ自己紹介をしているイドルフリートを少し距離を置いて眺めた。仕草も口調も性格も何もかもが普段通りに見える。しかし、イドルフリートは思い出と呼ばれるものを全て失っていた。
普段髪を結っていたリボンは扱いにくいと言って簡素な紐に結び直してしまっている。破棄するかしないかで大きく揉めた古びたリボンなど、何故残してあるのか不思議そうに自らゴミ箱へ入れようとまでしていた。黒のコートもコルテスが回収しなければハンモックの敷物にされていただろう。
「今までの航海を知識として把握してはいるが、諸兄に訊ねることも多いと思う」
まだ出港までしばらく時間がある。これがただの小休止であるならば、コルテスはイドルフリートの現在の状態を広めるつもりはなかった。しかし、これからコルテスは夜会に出るために船を留守にしなければならない。何か異常が発生した時、現在のイドルフリートがいままで通りの対応ができる保証はないのだ。
飾り気のない装束に、靡かないように纏められた髪。普段とは違う装いの中で、全員に届くよう響き渡る耳に心地よい声だけは以前と変わりなかった。
「船長はこれから少し留守にしなければならない。代わって責任を負うのが私では諸兄も不安だろう。要するに! 私が何かせねばならない事態を諸兄が引き起こすことを禁ずる!」
歩調は短く、速くなっていく。普段なら夜明けを待ち日を見上げながら帰ったが、今回はそうはいかない。船員やイドルフリートを信頼していないわけではない。それでも、コルテスは急がなければならなかった。
慌ただしく船のタラップを駆けあがる。もう病室にいる必要もなかったが、海を好む質なのは変わらなかったのかイドルフリートは陸に泊まろうとはしなかった。その理由を知る者は少ない。今はイドルフリート自身も忘れてしまっていた。
「イド!」
「あっ、閣下! おかえりなさいー!」
コルテスの声に答えたのはイドルフリートではなかった。
普段なら月明かりに照らされた静かな甲板は、今はほぼ船員全員が集まって酒瓶を散らかしている。静寂などからは程遠いその空間は夜一人で夜空を見上げることを好んだイドルフリートには似つかわしくないものだった。
「これは、どういうことだ……?」
「歓迎会です! だって今のイドさんにとっちゃ初対面みたいなもんでしょ」
コルテスを出迎えたのはたった一人で、その一人もイドルフリートに呼ばれ宴の輪の中に加わりに行った。酒を注ぎ合いあることないことイドルフリートに吹き込んでいるらしい。もちろんそんなものを信じてしまうほどイドルフリートも純粋ではなかったからただの笑い話にしかならないが。
しかし心配し寝る間も惜しんで帰って来たコルテスにこの仕打。どうしろなどと命ずるつもりはなかったが、あまりにも薄情すぎる。普段なら夜会で疲れたコルテスを労わってイドルフリートと静かに過ごすというのに、今のイドルフリートの眼中にコルテスはない。
何かの冗談か弾みだったのだろう。イドルフリートの横に座る船員がちょんちょんと自らの頬を突く。間をおかず、イドルフリートはその突かれた場所にキスを贈った。まさかされるとは思っていなかったのか船員は目を丸くしていたが、イドルフリートは悪戯っぽい笑みを浮かべるだけである。調子づいた船員たちは我先にと頬を差し出しはじめる。中には唇を出す阿呆もいて、コルテスは糸状の何かが切れる音を聞いた気がした。
「イド!」
怒鳴り声に船員たちは一斉に動きを止める。声に驚いたらしいイドルフリートはそれが自分を呼ぶ声であることにしばらくしてから気づき、声の主であるコルテスを見つけた。
「ああ、船長! 皆陽気でいい船員ばかりだな!」
「いいから来い!」
嬉しそうに笑うイドルフリートを見なかったことにして、コルテスは乱暴に手首を掴むと船員たちの輪から無理矢理連れ出した。まだ杯を置いていなかった為、イドルフリートの手と手首を捕らえたコルテスの手が酒に塗れる。コルテスは船長室までイドルフリートを引き摺ると、力任せにベッドの方へ投げて素早く扉を閉めた。
「っ、何をする!」
「それはこっちの台詞だ!」
丸呑みされてしまいそうな勢いで怒鳴られ、イドルフリートは一瞬怯んだ。それを見逃すはずもなく、コルテスはイドルフリートの両手を纏めてベッドに縫いつける。馬乗りされてしまえば体格の違いの所為でイドルフリートは満足に動くこともできなくなった。
コルテスが何を言いたいのかもわからず、イドルフリートはただ瞬いて訝しげな顔をするしかない。意図を掴み切れていないイドルフリートにコルテスは苛立ち、つい両手を拘束する腕に力が籠った。
「お前は俺の隣にだけいればいいんだ! あいつらにあれ以上仲良くしてやる義理などない!」
「はぁ?」
イドルフリートが浮かべた呆れの表情に、コルテスは更に怒りを煽られた。自分が大多数の中の一人であるような扱いを受けたような気分になる。イドルフリートの中で自分だけは特別だったのだ。他の誰かが特別になることも許せなければ、自分が特別でなくなることも許せない。
コルテスが何を思っているのかなどイドルフリートが知るはずもなく、イドルフリートは胡乱気な目をコルテスに向けながら当然のように口を開いた。
「仲良くするも何も、今彼らと私の間にはなんの信頼関係もない。ならば私は努めて彼らに信用してもらわなければならない。何が可笑しいと――」
「今までお前はそんなことしてこなかっただろう!」
信用など得ようと思って得るものではない。功績を残せばそれに相応しいだけの信用を寄せてくれる。そうコルテスに説いたのは彼自身ではなかったのか。暗にそう含めたつもりだったのだが、もちろんそんな記憶のないイドルフリートには伝わるはずがない。
イドルフリートは妙に冷めていくのを感じながら嘲りを含んだ笑みを浮かべた。
「海に出れば命を預け合うんだ。今まで君に従って信頼関係を築いてこなかったとしたら、それは私の不幸なんだろうな」
「お前は俺に素直に従うような奴じゃなかっただろう」
「ああ、確かに君に従うのは御免だね。命がいくつあっても足りない」
蔑むような目を向けられてコルテスは思わず逃げ出したくなった。そんな視線は今までイドルフリートに向けられたことなどない。イドルフリートだけは、絶対に自分を信頼してくれた。しかし、この視線には信頼どころか不信しか含まれていない。
イドルフリートは緩くなった拘束から逃げ出して、少し痺れたらしい手首を摩っていた。赤く痕がついてしまっている。あまり袖の長いものは船の上では邪魔になる。イドルフリートは返し忘れていた包帯を手首に巻くのが最善だと考えを巡らせていた。
「不本意ながら、船長は君なんだろう? 指示には最低限従う。それで構わないだろう」
イドルフリートはコルテスの返事も聞かずに、乱暴に扉を開け放ち部屋を後にした。
イドルフリートとコルテスの間に生まれた亀裂は瞬く間に船全体に認知されていった。
海の上では階級にかかわらず全員が全員の命にかかわることを大なり小なり行う。どんな下っ端であれ失態を犯せば船を沈めかねない事態を引き起こすこともある。だからこそ、船員同士の信頼関係とは重要なのである。
確かに組織である以上非情さは必要である。しかしその非情さとは大を取る為に小を切り捨てるようなものであり、神のような理不尽なものであってはならない。イドルフリートにはコルテスの非情さが後者に思えてならなかった。
事の発端は一日目の宴会のことであったが、それ以降も軋みは酷くなっていった。イドルフリートが船員と話をする度にコルテスの視線がきつくなり、船員が畏縮する。威嚇程度でイドルフリートが逃げを打つこともなかったが、船員たちは違うらしい。海の男な癖に随分と繊細な心をお持ちのようだと思うものの、イドルフリートはコルテスの態度が気に入らなかった。
コルテスが言うことが確かならば、過去のイドルフリートは進んで船員と信頼関係を築こうとはしなかったらしい。一体何故なのか。そう時間をかけることなく、イドルフリートは一つの仮説を立てた。
答は異常なまでの船員の怯えにあるのだろう。怯えてはいるものの船員たちはどこか慣れた様子であった。つまりこれはイドルフリートの知らない過去から日常的に続いていたものなのだ。コルテスを王に頂く絶対王政のような恐怖政治が布かれているのだと思えば苦もなく納得できた。
絶対王政に必要なものは王に対する忠誠心である。下手に民衆が団結してはいざ反乱を起こされると大変な事態になってしまう。だからこそ、コルテスは信頼関係というものを築くことによって船員同士が繋がることを防いだのだろう。コルテスを挟むことによって一応船全体が信頼関係で繋がれているのだから、個々で繋がる必要もない。
イドルフリートはその仮説に嫌悪を抱いた。この船には多くの下級貴族が乗っているらしい。貴族社会に慣れ親しんでいるからこそ違和感を抱かないのだろう。どこまでも計算高いコルテスに寒気がする。過去の自分は碌でもない男についていってしまったものだと後悔も抱いた。
顔を合わせてしまえば罵らずにはいられない自分がわかっているからこそ、イドルフリートはできるだけコルテスとの接触を避けた。幸いまだ出港には日があるという。積荷の管理くらいなら間に人を挟んでも問題はない。願わくば出港までに現状が好転してほしいが、記憶が戻ったところで船長が変わらなければ意味がないのだろうとイドルフリートは溜息を吐いた。
夜会から帰った日を最後に、コルテスはイドルフリートの姿を目にしていなかった。視界の端に金が映る度に目で追うが、太陽の光が反射しただけだったり似ても似つかぬ金髪であったりとイドルフリート本人であった例がない。避けられているのだと気づくまで、長い時間は必要なかった。
「なぁベル……。俺、何か間違ったか……?」
「そうですねぇ」
相変わらず聞いているのかいないのかわからない返事をするディアスに、コルテスは溜息を吐いた。相談相手にこれほど向かない者もいまい。しかし、機嫌が悪いとわかりきっているコルテスに近づくのはディアスかイドルフリートしかいなかったのであるから仕方がなかった。
ディアスは一口酒を含むと、珍しくコルテスの方を向いて口を開く。
「普段ならイドさんも顔真っ赤にして拗ねてるだけなんでしょうけど。閣下が悪いんですよ、今のイドさんにとって閣下はただの船長なのに」
ディアスの責める声からコルテスは酒を呷るふりをして逃げた。酒の味などわかるはずもない。
コルテスが独占欲をむき出しにして船員を牽制するのはいつものことだ。人の好意というものを真直ぐに信用できないイドルフリートは敢えてコルテスの独占欲を煽ることで満足していた質もある。その両方を知っているからこそ、ディアスを含めた船員たちは呆れたような微笑ましいような微妙な心情で二人を見守ることができた。
しかし今のイドルフリートには人の好意を疑う理由がないらしい。どの程度まで記憶を失っているのかわからないが、明け透けに利害関係の絡まない友好関係を築くため宴を開いた時点で船員のほとんどがそれに感づいた。
普段入り込めない場所というものは好奇心を刺激される。更に今回はその居心地の良さも加わって、皆が皆入り浸ってしまったのだ。もちろんそれがコルテスにとって気分が良いものではないと知りながら。
「ただの船長、か……」
「そうですよ。イドさんと旧知でもなければ悪友でもない。知り合ったばかりのただの上司です」
俯くコルテスにディアスは追い打ちをかける。カウンターに体を預けるようにして顔を伏せたコルテスだが、別段同情などは抱かない。強いて言うならいい気味だとかそんな類の感情を覚えた。
長く深く溜息を吐く。溜まった鬱憤も同時に吐き出せてしまえばいいのにと思うが、コルテス自身どうしようもないことだとわかっていた。
「まぁ、閣下が苛々してるのはクルーたちも感づいてますし。適当な仕事でも見繕って、交流してみたらどうです?」
「……検討する」
仕事となればいくらなんでも避けるわけにはいかないだろう。これ以上ヘマを踏んで余計に関係が拗れたとしても、元々存在しなかったディアスの非はやはり発生しない。
ディアスは凭れていた体をカウンターから離し、店の奥を伺う。カウンターから一番遠い席で、背を向けて酒を呷る金髪の姿が見えた。
「いい加減にしてくれたまえ!」
イドルフリートの叫び声に船員たちは作業の手を止めて皆一斉に振り返った。
甲板の中央でやや距離をおいてコルテスとイドルフリートが対峙している。怒鳴り声を上げたイドルフリートの方は気が立っているのかやや肩を怒らせて鋭い眼差しでコルテスを睨みつけていた。対するコルテスは特に気負った様子もなく、極めて自然体でイドルフリートを眺めている。見守る船員たちはコルテスの内心を何となく掴むことができたが、やはりイドルフリートはその限りではないようだった。
「可笑しいだろう! それは私が担当する職務とは思えない!」
「そうでもしないとお前は顔すら見せないだろう」
コルテスはイドルフリートを見もせずに答える。その我儘な子供をあしらうような態度にイドルフリートは血が上るのを感じた。
床板を蹴り抜かんばかりの力で甲板を踏みつける。小気味良い音は遮る音がない為船全体に響き渡った。
「何故君に顔を見せる必要がある! 無用な衝突はさけたまえ!」
「別にいいだろ」
「いいわけがないだろう!」
刃でも突きつけそうな剣幕で睨みつけた。イドルフリートが声を荒げる度にコルテスとの温度差が浮き彫りにされていく。握りしめていた拳を握り直して、イドルフリートは叫ぶように問い詰めた。
「命を預け合うんだぞ?! 慣れ合いも危険だがいがみ合うなど以ての外だ! 君はこの船を沈める気なのか?!」
「なんでそうなる……。信頼関係を築くべきなんだろう? 俺とお前の間になくてどうする」
「トップが慣れ合う必要などない!」
舞台の上にでもいるかのように、イドルフリートは大げさな手振りでコルテスに訴える。船員たちからの注意は集まるものの、肝心のコルテスは苛立たしげにイドルフリートを見るだけで望むような注意は向けられなかった。
「どうしてそうやってわざわざ亀裂をいれようとするんだ! 航海士などすぐに替わるだろう?!」
「他の船はどうか知らないが、俺は替えるつもりなんざない」
「……君と私の相性は甚だしく悪いと思うが」
イドルフリートは声量を下げて這うような声を出した。イドルフリートの急変した態度にコルテスは静かに視線を向ける。イドルフリートは視線をコルテスの足元へ移しており、視線が交わることはなかった。
コルテスに視線を向けられていることに気づかぬままイドルフリートは周りの様子を窺う。船員たちも少なからず胸のすく思いをしているだろうと思っていたが、どうやら違うらしい。困惑している船員がほとんどで静観に徹している船員の姿もある。誰一人イドルフリートと同じ考えの者はいないようだった。
「……船長が船長なら、船員も船員だな」
「イド、」
「君は船長に相応しくない。否、船員にも相応しくない。君のような船長が導く船になど乗っていたくもない! 私は降りさせてもらう!」
乱暴に首の鎖を取り払う。イドルフリートは一体これがどんな意味を持つものなのかは知らない。直感的に選んだその鎖に繋がれた十字架をコルテスに投げつけ、イドルフリートは勢いよく体を船の外へ放り投げた。
航海士というものは海技士という資格を要する。中でも一等航海士は船長と同じ資格を要するため、わざわざ一等航海士の地位に甘んじる者は皆無に等しい。航海士が船長に成り上がることはごく自然なことだった。
しかし、イドルフリートはその限りではなかった。船を導くことを好んではいたが、人の頂点に立って導くことは嫌っていたらしい。イドルフリートが船長にならなかった理由は、何もコルテスが旧友であるという理由だけではなかった。
「どーするんですか」
「……奴が勝手に出て行っただけだろう」
不思議なことにイドルフリートに感じていた苛立ちは跡形もなく消え去ってしまっている。しかしそれは鬱憤を晴らしたからではない。今まで憤りが覆い隠していたものが逆に覆い返そうとしているのである。
コルテスは何度もイドルフリートに記憶がないことを自分に言い聞かせているつもりでいた。しかし結局のところはわかっていなかったのだろう。
「止めなかったのは閣下ですけど」
「お前も止めなかったし、引きとめたところでどうなったって言うんだ」
「少なくともこんなことにはなってませんよ」
ディアスは一人分空いた椅子を横目で見た。そこに腰掛ける者の姿はこの船室にも船内にもない。
コルテスが夜会に赴く前に絶対に手放すなと言いつけた十字架を押しつけ、イドルフリートは着の身着のまま船を飛び出した。金目の物といえば商売道具となるコンパスや砂時計くらいだろうが、それをイドルフリートが売るわけがない。すぐに途方に暮れてしまうだろう。
「積荷の管理とかどうするんです。どこに書類あるかとか知りませんよ?」
「……イドの仕事だったからな」
「任せっきりでしたもんね」
コルテスは返答に詰まった。確かにイドルフリートの仕事ではあったが、管理の書類がある場所くらいはコルテスも知っておくべきだったのかもしれない。他の航海士が知っている可能性もあるが、簡単に手にできるような場所に保存してはならないものだからこそ知らされていない確率の方が高いだろう。責任者としてイドルフリートを除いて唯一そのありかを知るはずのコルテスが知らないのだから、失くしてしまったようなものだ。
「それに出港の時どうするんです。誰が船首に立つんですか」
「……」
次々露呈するイドルフリートがいないことによってあく穴にコルテスは深く溜息を吐いた。まだ地位による事務的なものしか露呈していないが、それだけでも塞ぐには苦労しそうな穴である。
海から生まれたような、そう揶揄されることもあったイドルフリートはこの船を誰よりも知っていた。イドルフリートしか知らない部屋や機関があったとしてもコルテスは驚かない。それがあったとしても、最早その設備は死んだようなものだった。
「まぁ、イドさんのことですから。結局私たちを見捨てられないのと立ち行かなくなったのと半々ずつくらいになった辺りで帰って来てくれますよ」
ディアスの無責任な希望的観測にコルテスは同意するしかなかった。
しかし、この予想を裏切るかのようにイドルフリートは一向に帰ってくる気配を見せなかったのである。
コルテスは齎された情報を何度も反芻していた。
港の外れ。海辺の町とはいえ外れは森の入口の近くにある。まだ開墾されていない森は一人で入るには成年男性でも危険だった。獰猛な狼の鋭い牙には人間の喉など柔らかすぎる。街を陸路で行き来するには普通森を迂回しなければならない。だからこそ森の近くであるその場所は他の石畳の道が延びる街外れと比べ酷く静かで、何故かぽつんとある整備されていない井戸が不自然だった。
イドルフリートが最後に目撃されたのはこの森の近く、辛うじて街に差し掛かろうとしている地点である。住民たちが言うにはかなり日が経ってしまっているらしい。イドルフリートが船を下りたのは最近の話ではない。かなり早い段階でこの場所を通ったのだとしたら、イドルフリートが森の中へ入ってしまっている可能性もあった。
「流石に、入るわけにはいかねぇな……」
コルテスは木々が生い茂り光を通さない森の道を遠目に見る。足跡らしきものは見当たらない。コルテス以外の人影が一向に見つからないことが、この道の通行量をよく示していた。
「お兄さん! そっちは危ないよ!」
背後から掛けられた声にコルテスは振り向いた。気風の良い女が小走りに駆け寄ってくる。どこか焦りを滲ませた女は慌ててコルテスを手招いた。
「そこは魔女が出る森さ、入ったところで誰も生きて帰ってこれないよ。この間も死人がでたのさ」
「ああ、入るつもりはないが……。そうだ、この辺りで金髪の男を見なかったか?」
「うん? 何言ってるんだい、見たに決まってるじゃないか」
女はコルテスの問いに不思議そうに答える。極当たり前のことを訊かれたのだと言わんばかりの態度にコルテスはイドルフリートの行方を知らない自分や船員たちが異端者になったと錯覚しそうになった。
聞き進めていくうちに、どうやら女がイドルフリートを見かけたのは最近の話ではないらしいと知る。もう大分月日が経ったことなのだと言いながら、女は礼を告げた。
「お兄さん、港のガレオンの船長さんでしょ? この間人手を借りたじゃないの。あのときはありがとね」
「あ、ああ。あの時か。否、礼には及ばない。それにうちの航海士だった。逆に迷惑をかけて――」
「おやまぁ! それは大変でしょう」
手を叩いて目を丸くした女は驚きよりも哀れみの色が強い表情でコルテスを見ていた。こんな見知らぬ女性にまでイドルフリートは心配をかけているらしい。
記憶がないだけであれほどイドルフリートに拒絶されるとは思っていなかったコルテスは、どこかでイドルフリートを連れ帰るのはただの我儘なのではないかと思っていた。本来のイドルフリートは現在の記憶を失っている状態であって、つい最近までコルテスの下で航海士をしていたイドルフリートは無理矢理強制されたものだったのではないかと思ってしまった。
けれどきっと記憶の有無にかかわらず両方がイドルフリートだったのだろう。コルテスがイドルフリートに及ぼした影響が大きかったからこその変貌だと思えば妙な優越感すら湧きあがってくる。そして、また出逢った時のように関係を重ねていくことでまた新たなイドルフリートが生まれるのだろう。
コルテスの内心など知るはずもなく、女は黙り込んだコルテスの態度を勝手に解釈して慰めるように肩に手をおいた。
「私には難しくて航海士さんが何をしてるのかはわからないけどね。でも仲間を失うっていうのはどういうことかわかるよ」
「……失う?」
うんうんと頷く女は涙を拭うような仕草までしている。コルテスは思いもよらない話にしばし黙り込んだ。しかし悩んだところで結論がわかるわけでもない。コルテスは女に少し震えた声で訊ねた。
「ああ、確かに失ってはいるが、今もう一度一緒に航海するために探しているんだ。何処にいるか知らないか?」
「……信じたくないのはわかるけどね、受け止めてやらないといけないよ。ただでさえ船に乗ってるんだ、その航海士さんの家族の分まで受け止めてやりな」
「待て、待ってくれ」
狼狽するコルテスに女はただ慰めるように言葉をかけるだけである。コルテスの言葉を敢えて聞いていない様子の女に話を聞かせるのは一苦労で、何度か制止を繰り返しようやく女はコルテスが訊きたいことがあるらしいと気がついた。
「君が今しているのは、先日うちの若いのが手伝いに来た時の話だよな?」
「そうだよ。あれは酷い有様でね。あまりにも不憫で助けてやりたかったのもあったんだよ」
「酷い、大怪我だったんだよな?」
「……確かにそうだったけどね。あれは落ちて沈んだだけじゃなかったみたいだったよ」
さっと血の気が引く。じわじわと包囲網を狭められている。背水の陣よりも質の悪いそれに、コルテスは恥も外聞もなく逃げ出したくなっていた。脳裏に過ぎる予想が外れて欲しいのに、聞けば聞くほど補強されていく。
コルテスが現実を受け入れられていないととったのだろうか、女はコルテスの肩を捕まえるように手を置き直した。
「あの日、お兄さんとこの人たちが引きあげてくれたのは――
「あっ、閣下どこ行ってたんです」
コルテスは甲板に登り船を見渡した。いない。場違いなほど美しい蜜色の髪はどこを探しても見当たらなかった。
辺りを見渡すコルテスにディアスは訝しげな視線を向けるものの言及はせずにコンパスと砂時計を押し付ける。コルテスは慌ててそれを落とさないように受け取った。何故今こんなものを、と零しそうになった言葉はすぐに呑み込む。それはイドルフリートの使っていたコンパスと砂時計に間違いなかった。
「なっ、ベル、イドがいるのか?!」
「イド……? 何です、それ」
ディアスは聞き慣れない名詞に顔を顰めた。新しい用語なのだろうか。船で「イド」と言えば緯度くらいしか思い浮かばないが、「いる」というくらいなのだから動物だとか生き物の類なのだろう。ディアスはその「イド」なる生き物を想像するよりも早く更に顔を顰めた。
「やめてくださいよ、生き物なんて。ただでさえ壊血病なんて厄介な敵もいるのに」
「な、何を言ってるんだ……?!」
目を見開く。ディアスがイドルフリートを知らないはずがない。冗談にしては質が悪すぎる上に、ディアスに嘘を吐いたような素振りは見られなかった。
明らかに様子のおかしいコルテスにディアスは危機感を覚えた。何か良からぬ病気によって可笑しなものが見えているのではないだろうか。しかしそれにしてはコルテスの目は光を失ってはおらず、焦点もしっかりと定まっている。
コルテスは異世界に一人だけ取り残されたような感覚に苛まれ周りの船員たちを見まわした。顔ぶれに変わりはない。普段通り、いつもの場所でいつもの人物が出港の準備にあたっている。しかし、今ここで一番働いているはずの姿が見つけられない。甲板中を探しても赤いリボンはおろか金髪など一筋も見つけられなかった。
「イド、イドを知らないか!」
「……何言ってるんです?」
船員たちは大声をあげたコルテスを一斉に見たけれども、「イド」なる言葉に思い当たるものがなくて互いに顔を見合わせるだけだった。ディアスは何やら「イド」がコルテスにとって重要なものであるらしいことは感じ取ったがそれ以上を把握することはできない。
訝しむディアスにコルテスは情けないような腹立たしいような泣きたいような思いが込み上げてきた。何故誰もイドルフリートを知らない。何故イドルフリートの名を聞いて怪訝そうな顔をする。何もかもを壊してしまいたかった。
「イドだ! イドルフリート・エーレンベルク! この、コンパスと砂時計の持ち主だ!」
「……それは私の隣のハンモックの中に転がってたんですよ、赤いリボンと汚い緑色の布と一緒に」
「それもイドのものだろう?!」
誰も使わないはずの予備のハンモックに入っていた小物の持ち主は「イド」らしい。大方以前使っていた人物が忘れていったのだろうと思っていたのだが、その人物こそが「イド」なのだろう。今その「イド」がどうなっているのかは知らないが、ここまでコルテスに入れこまれているのだからきっと昔からの仲だったか余程優秀だったのだろう。一度「イド」なる者に会ってみたいと思ったディアスは、「イド」を知るものを探すコルテスに便乗することにした。
しかしいくら見渡せど「イド」を知る船員はいない。必死に過去の記憶を洗う者も顔を見合わせ相談する者も、結局は全員が「イド」を知らないようだった。
「その『イド』さんがどうしたんです」
「怪我を負っていて、記憶を失っていた……」
どこか呆然として船員を見まわすコルテスは耳をそばだててはじめて微かに聞こえる声でディアスの問いに答える。港町で再会でもして、もう一度船に乗せる算段でもつけたのだろうか。この船に乗るにはそれなりの手続きが必要なわけで、即日決めて乗せられるようなものではないはずである。ディアスは纏まらない考えを兎も角話は本人と顔を合わせてからだと一時停止させた。
「それで、喧嘩して、船を降りて……、」
やはり昔の船員だったのだろう。喧嘩別れをした友人と仲直りを果たし、船で落ちあう約束でもしていたのかもしれない。乗るつもりはなくとも見送りに来る約束でもしていたのだろう。ならばもう少し待てば本人に出逢える。ディアスは文とも呼べないような文でつらつらと発言し続けるコルテスに続きを促した。
「見失って、探して。見つけたと思った、のに、」
(嗚呼、)
ディアスは朧げに続きが読めた。恐らく見つからなかったか既に冷たい土の下に葬られていたのだ。きっとこれほどコルテスが取り乱しているのは、再会できると思っていた希望を無残にも砕き散らされた為なのだろう。
本日、快晴。北西の弱い向かい風。船首に立つ者がいないにも関わらず、その船は見事な技術で出港していった。
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die Venus(ヴェーヌス)=金星
明け方と夕方のみに観測される。故に、「明けの明星」「宵の明星」と呼ばれる。
ラテン語で「光を齎す者」を示す明けの明星「ルシフェル」はキリスト教において唯一神に仕える最高位の天使で後に堕天使の総帥の名として与えられた。
アステカ神話ではテスカトリポカに敗れたケツァルコアトルが金星に姿を変えたとされている。
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