とある航海士の英雄持論 前
エルナン・コルテス率いる部隊にはある不文律が存在する。失態は2回だけ、それ以上は許されていない。別段奇怪なわけでもなかったが、聊か他の船に比べると厳しい掟である。どんな末端の部下であれど彼は正確にその失態の数を把握し、実際に船を降ろされた者も数知れず。最後の通告は彼本人ではなく右腕とも呼ぶべき航海士長の役目であることも、彼に従う者の間では有名なことであった。
コルテスと彼の船の航海士長――イドルフリート・エーレンベルクの付き合いは然程短いものではない。どの船員も彼らの出会いを知らず、またそれを気にかける船員が現れないほど彼らにとって二人が揃っていることは当然のことだったのである。
失態を犯し過ぎた部下の始末を担っているエーレンベルクは、誰もがそれに不満を抱かぬほど「完璧な」男であった。エーレンベルクが知らぬものはなく、できないことなどない。夢物語のようではあったが、彼が失態を犯す場面を思い浮かべられる者などいなかった。
「そこで何をしている」
背後からかけられた声に一人の船員が大きく肩をはね上げた。青ざめた顔で振り向きながら、その船員はイドルフリートから隠すようにランプを後ろ手に持った。
「え、エーレンベルク航海士長! ななななんでもありません!」
「……君はもう少し動揺を抑えようとは思わないのか」
深く長く溜息を吐き、エーレンベルクは船員の足元へ視線を移す。濡れて床板の色が濃くなっている。いくら船の中と言えど、たった一部分だけなど不自然な濡れ方を波で説明出来はしないだろう。船員の後ろのテーブルには空きっ放しの瓶が置かれていた。
「差し詰め、手でも滑らせて脂を零したか」
「……すみません」
どんな細かなことでも失敗は失敗である。俯く船員に許されている猶予がないことなど本人が一番よくわかっていた。エーレンベルクとは視線を合わせないようにしてただ審判を待つ。
エーレンベルクは再び溜息を吐くと、俯いたままの船員の頭を軽く叩いた。
「私はまだ何も見ていない。そうだな?」
「え、」
「さっさと頷きたまえ低能」
口を大きく開けて呆けた船員の横をすり抜けて、エーレンベルクは目的の部屋へと足を進める。後ろから大きな声で是が聞こえたが、エーレンベルクは何も応えなかった。
船員の気配が遠退いてから少し。いくら広いと言えど所詮は同じ船の中、それほど時間も経たずにエーレンベルクは目的地に辿り着いた。船の中でも一等しっかりとした、数少ない鍵のかかる扉のうちの一つ。エーレンベルクは静かに船長室の扉を叩いた。
「入れ」
短い許可の声が聞こえると同時にエーレンベルクは戸を開き中へ足を踏み入れた。中ではコルテスが上等なデスクと番になっている椅子に悠々と腰かけている。煌々と灯るランプにラム酒が怪しく照らされていた。
「一体何の用だ。代わりを立ててきたが、まだ見張りが終わっていない」
「まぁ焦るな。この船に俺以上に優先することがあるのか?」
「……」
エーレンベルクは無言になったが、コルテスはあまり気にしていないようだ。
こつ、こつとコルテスがデスクを叩く音だけが響く。聴こえて然るべき波の音の気配もない。目線で促されるままにエーレンベルクはコルテスに向かい合うように簡素な椅子に腰かけた。
「何が言いたいかわかってるな?」
「ああ」
「誰かも、わかっているな?」
「……勿論」
「よし、ならいい」
コルテスは満足げに頷くと、放置していたラム酒に口をつけた。勢いよく呷られたそれは見る間もなく飲み干され、空になったグラスが乱暴にデスクに置き直される。横に置かれている酒瓶には何も入っていなかった。
「お前は有能だな。お前はあの低能どものように失態など犯さないし、見目もいい。それに、何も言わなくても行動するし、何を命じても何も言わない」
「そういう契約だからな。まさか忘れたのか?」
「いいや? 契約も守れない輩が多いからな」
気分がよくなったのか、コルテスは立ち上がり辞そうとしたエーレンベルクを手招きして留めさせる。少し腰を浮かせただけでその場に留まったエーレンベルクに笑みを浮かべ、コルテスはグラスの底でデスクを軽く二度叩いた。エーレンベルクは溜息を吐いて席を立つ。デスクから一番近い戸棚の一段目には、コルテスが船員の分とは別口に用意させた酒が備えられていた。
「ああ、グラスも取ってこい。お前にも呑ませてやる」
「結構。私にはまだこれから仕事がある」
「船長命令」
意地の悪い笑みを浮かべると、コルテスは再びグラスでデスクを叩き催促する。隠しもせずに顔を顰めたエーレンベルクは、渋々戸棚からコルテスの持つものと同じグラスを取りだした。エーレンベルクの持つグラスを見てコルテスは更に笑みを深める。彼の持つグラスで、この部屋に用意されている全てのグラスが使用済となった。
「一杯しか付き合わないからな」
「可愛げのない」
エーレンベルクが栓を抜くと同時に、コルテスはデスクから身を乗り出してグラスを突き出した。手元も確かめずにエーレンベルクは適当に瓶をひっくり返す。溢れかえる直前、コルテスがグラスのふちで瓶の向きを変えさせた。そのままエーレンベルクが注ぎ終わるのも待たずに呷る。
「注げ」
「自分でやりたまえ」
「船長――」
「ああもうわかった」
エーレンベルクは自分のグラスに注ぐのをやめ、投げやりにコルテスのグラスに注ぐ。たぽん、と大きな音を残して注ぎ終えた酒をデスクに置くと、エーレンベルクはコルテスに倣うように一気に呷り、盛大に噎せた。
「っか、ばっ、なんだこれは!」
「何って……ああ、体が温まると聞いたからヴォトカで割った」
「どれだけ強くすれば気が済むんだ! この低能が!」
デスクにグラスを叩きつけると、エーレンベルクは鼻息も荒く踵を返す。不必要なまでに強い力でドアノブを掴み、勢いよく開け放つ。
全身で苛立ちを表現するエーレンベルクに、コルテスは笑いながら声をかけた。
「おい、もう帰るのか?」
「五月蠅い! 一杯は一杯だろう!」
「はぁ。まぁそれは許したから構わないが、」
何を言われようと立ち去るのだと決めたエーレンベルクは振り返ることもなく部屋の外へ出る。笑い声が酷く気に障ったが、どうせ酔っ払いの戯言である。元々仕事か酒がなければ話すような間柄でもないのだ、私生活での多少の無礼は許されるだろう。
「あまり見逃すようなら、お前も切り捨てるぞ?」
そのまま力を殺さず扉を閉める直前、不気味なほど通る声がエーレンベルクの耳に届いた。
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