保管庫の住人


 男はこれまで幽霊などというものを信じたことはなかった。
 船乗りらしく験を担ぐことはあるが、それでも呪いに効果があるなどと思ったことはなかった。鍵を後生大事に握っていても怪我が早く治るとは到底思えないし、大きな声では言えないが全てが金で作られた黄金の国など存在しないと思っている。前者は所詮扉を開けるか錠を外すしか用途がないものであるし、後者についても精々質のいい鉱山が沢山あるだけに留まるだろう。口には出さず周りの人間に合わせてはいるものの、男は酷い現実主義者だった。十字架であろうと金が足りないなら売り払えばいいと思うし、10年も経てば参る者がいなくなったからと別人が墓穴に埋めなおされることを知っていた。
 そんな男もとうとう迷信に屈服せざるを得なくなってしまったのかもしれない。男は目の前をふよふよと漂う美丈夫に思わず頭を抱えた。

「お、やはり見えているのか。おい、声は聞こえるのか? 聞こえるなら返事をしろ」
「なんですかこれは厄日なんですか厄日なんでしょう今なら厄日でもなんでも信じますから!」

 おおよそ人間とは思えない白い浮遊物は、なんと人間の言葉まで使役するようである。どこか固いアクセントのあるそれがまるで訛りのように聞こえて人間味が増しているような気がする。嗚呼どうして何も見なかったことにして踵を返さなかったのかと男は絶望に暮れていた。
 信仰心など欠片もないような男だったが、態々墓を荒らしてみたり十字架を売り払ってみたりなどはしたことがない。ただ、航海日誌を開いてみただけである。銀の糸でタイトルが刺繍された本は、言われてみれば何かの曰くがあっても納得できそうなほど擦り切れてはいる。しかし、何かが憑りつくには少々大切にされすぎているような気もする。
どちらかと言えば、聖職者な風でもないのに十字架のモチーフをふんだんに使った衣装を着ている幽霊の方が呪われるべきではないだろうか。
 困惑するも視線を外せない男を一通り眺め、幽霊は軽く顎を掴んで首を傾げた。

「ふむ。声は聞こえないか。なら意思の疎通は難しいな。ポルターガイストでも起こすか?」
「やめてくださいこの部屋誰が掃除すると思ってるんですか」
「なんだ聞こえているじゃないか。なら早く答えるといい」

 してやったりと言わんばかりに白い浮遊物が鼻で笑う。話すことができるのなら、これは息をしているのだろうか。否、この白い浮遊物に実体があるとは思えない。この浮遊物を挟んで男とは反対側にある本棚の背表紙をその場にいながらしっかりと読むことができた。
 すでに浮遊物に言葉が通じることまで把握されてしまっている。次は何を要求されるのだろうか。これまでこの類の話を全く信じていなかった男には皆目見当もつかない。きっと定石があるのだろうが、話も真面目に聞いたことがないために何をすればいいのか全くわからなかった。

「聞こえるなら話は早い。ようやく私が見える人間を見つけたと思えば声も聞こえるとは。まだまだ私の運も捨てたものではないな」
「貴方に見つかった私の運は最悪ですよ!」

 何故かとてつもなく面倒なことになるような予感がする。むしろ、すでに面倒なことになっているような気がする。



 航海にはアクシデントはつきものである。どこで何が失われるかなどわからない。身分が高かろうが、重要な役職であろうが、親しい者であろうが、神にとっては至極些細な違いでしかないからである。  船長にすら万が一の時に後を任せる役職がある。つまり、一人失った程度で船を止めることなど不可能であるということを示していた。
 理屈は理解している。同じ目に遭った部下を慰めたこともある。しかし、いざ自分の身に降りかかってみると、こうも納得いかないものなのかと歯噛みした。

「入ります」
「ああ」

 おざなりな返事で迎え入れてしまった新たな部下が、今回失った人物の代わりである。勿論この部下が空いた席を埋めたわけではない。一つずつ繰り上がったことで空いた末席にこの男が座ることになっただけである。それでもこれから長い航海をともにするわけであるし、皆に比べて日が浅いことは確かであったから、なるべく気にかけるようにはしている。
 この男を蔑ろにするつもりはなかったが、この男にばかり構いっきりになるには失った人物が大きすぎた。
 本来新人の教育まで世話するわけではない。もう航海士ではないが、もしここに今彼がいたならばこの男の面倒を見ていただろうと思うと、どうも他の者の手に預ける気にはなれなかった。

「直接案内できず失礼した。今探してもらったところが、見てわかる通り航海日誌の保管庫だ。慣れるまで参考にしたまえ」
「はい」
「ほかの船でやっていたといえど、船の設備が違うなら気に掛ける場所は違うからね」

 全幅も型深も覚えなおしである。万が一ほかの船の数値で計算でもされてしまえば、座礁してしまうことすらありうる。この辺りは調べようにも限界があるため他の船員に尋ねたほうが早いだろう。
 他に何かと考えていたが、男が何か言いたげであることに気が付いた。

「どうした、質問でも?」
「いえ、あの……この船って、出ます?」
「出る?」
「えっと、その……幽霊、とか」

 意外な質問に目を丸くした。幽霊船を所有しているつもりはないが、まさか幽霊が怖いとでもいうのだろうか。そんなものが怖くて船乗りになどなれるはずがない。
 胡乱げな様子に気が付いたのか、男は慌てて弁明を始めた。

「いえ、違うんです! あ、いや、違わないんですけど……。先ほど、それらしきものをみたもので」
「……ここで、かい?」
「ええ、さっきの部屋。保管庫で」

 どこかで幽霊を拾ってきたのだろうか。先の部屋と言えばかなり船の入り組んだ部分である。船乗りの霊であるならうっかり沈められてしまう可能性もある。早急に手を打たなければならない。
 しかし男はどこか困惑した様子でそれを庇った。

「ええと、でも船乗りではないと思うんです。きっと、迷い込んだだけかと」
「迷い込むには複雑な場所だが……まぁ、なくはない、か」
「ええ。あと、結構な美丈夫でした」

 船に女に霊。最悪な取り合わせに今すぐ港へ引き返したくなった。幸か不幸かこの男を乗せるために港に寄ったばかりである。まだ引き返せなくもない。
 手を決めあぐねていると、男は状況判断の材料を必要とされていると気が付いたのか、促されずともその霊にまつわることを思い出した。

「自己申告でしたが見える人も少ないようで、物にも触れられないようです」
「恰好は?」
「え? ああ、黒い、もしくは濃い色のコートにロングブーツで十字架を下げてました。赤いマフラーのようなものも」

 思わず音を立てて立ち上がった。一刻も早く日付が知りたい。否、それよりも直接この目で見たほうが早い。あまりの勢いに驚いたのか、男は少し後ずさる。その肩を捕まえて睨み付けるように男と向き合った。

「まさか、いや、馬鹿馬鹿しいが、もしかしたら」
「……え」
「どこで見た」
「で、ですから、先ほどの日誌を取りに行った部屋に」

 男が言い終わらない内に、身体は既に部屋を飛び出していた。



 見知らぬ男が何事もなかったかのように保管庫を去って数分、一つしかない扉が再び開け放たれた。開け放つと同時に中へあわただしく転がり込んだ影は、忙しなく棚の裏や机の下、果ては屈んで床と棚の隙間まで覗き込み何かを探しているらしい。慣れ親しんだ航海日誌の背表紙を撫ぜていたが、聞き慣れた声に思わず振り向いた。
 振り向いたところで滅多に人の目に映らない姿を思い出し、声の主に駆け寄ることを躊躇する。しかし見えないにしてはあまりにもはっきりとした呼びかけに首を傾げた。背を向けて今度は端から順に日誌を開いている様子から例に漏れず見えていないのだと悟るが、どうも納得できない。
 見えるはずがないというのに反射的に隠れた椅子の後ろから窺う。今となっては唯一の根城が散らかされていたが、止めようにも認識されなかったらという恐怖が先立ち何もできない。案の定、彼は存在に気が付かないまま声を張り上げた。

「おい、いないじゃないか!」 
「じゃあやっぱり気のせいだったのかもしれません。今まで見える質ではなかったので、なにかが間違ってそう見えたのかも」
「だが、それなら何故あの姿を知っている」
「えっと、あの姿とは?」

 部屋に入ってくる様子はないが、先ほどの見知らぬ男の声がする。どうやら嫌われてしまったらしい。恐る恐る部屋と廊下の境界まで進むが、男の声は聞こえども姿は見えなかった。
 背中に何かが触れる感覚がする。ほぼ同時に後頭部が目の前に現れ、どうやら通り抜けられたことを知った。初めての経験ではないのだが、やはりここに実在していないことの証明のような現象に慣れることはない。気味が悪いと自嘲し、その背を目で追った。

「そう、か。私でも見えないなら、仕方ないのか」

 もう部屋に用はないのだろう、後ろ手に扉を閉められる。鍵もなにもかかっていない、ただ同じようにドアノブを回せば開くはずの扉は開けることができない。見渡すまでもないような部屋だけが今の世界である。もし外からの音が何も聞こえなくなっていたなら、すぐにでも気が触れていただろう。

(もっとも、触れたところであの薄情者以外気づく者もいないだろうが)

 精々部屋が荒れて保管庫が移される程度だろう。否、物に触れられるかもわからない。それほどまでに、存在が不安定だった。

「せめて船中を歩き回れたなら、話も変わっただろうに」
「やめてください迷惑です」
「暇潰しくらい責められる謂れはない、何も備品を壊すわけでは――」

 返事があるはずのない独り言に返った言葉に言葉を止め、目を瞠った。古い扉特有の、鹿が鳴くような音と共に扉が開かれる。それ以上進む様子はないが、なんとか部屋の中から確認できる位置に件の男が立っていた。
 男は胡乱げな目線を向けている。視線はしっかりと捉えていた。もっとも、ここにこの男以外の人物がいたならば宙を眺めているようにしか見えないだろう。

「なんだ。薄情者かと思ったが、臆病者か」
「何が臆病者です、引き籠り」

 誰かに見られたら気が狂いでもしたと思われるからだろうか、男は渋々保管庫に入り後ろ手に扉を閉めた。再び密室に男と閉じ込められる。彼が引っ張り出してきた航海日誌を開きながら、男は日誌を棚に収め始めた。

「そういえば、お前は誰だ? この船で見かけた覚えはないが」
「それはこちらのセリフです。……ああ、もしかしてここに居ついて長いんですか」
「まぁ、長いと言えば長い。私の名は……そうだな。イド。イドと呼んでくれたまえ」

 握手を求めるように腕を伸ばす。まさか触れられるとは思っていなかったが、予想外にもイドが差し出した手はしっかりと男に握り返された。男の方も形だけのつもりだったのか意外な感触に驚いているように見える。  瞠った目をすぐに戻し、男は淡々とその名をイドに告げた。

「正直、私はまだこの船に乗って日が浅いです。あなたが古株なら、ご存知ないのも当然でしょうね」
「ふむ。新人の顔は把握したつもりでいたが、取りこぼしがあったか」
「引き籠って得られるものは何もないということですね」

 イドが苦笑して返すも、男は呆れた顔を見せるだけだった。
 広げられていた航海日誌を本棚に戻していく。順番があるだろうが、とりあえず今は波の揺れで散らからないようにしなければならない。しかし、何故だか残されていた日誌は本棚の空いたスペースよりも多かった。
 同じ装丁なのだから、恐らく同じスペースに仕舞われていたはずである。本棚と日誌を見比べ思考し始めた男に、苦笑するイドの声がかかった。

「これは書き方が似ているが別の人物のものだ。机の上にでも置いておけばいい。後で……船長にでも聞きたまえ」
「伊達に長居していたわけじゃないんですね」
「ああ。それに、これは特別だからな」

 イドは懐かしいとばかりに目を細める。特別という言葉に意味が込められていることを察するのは容易かった。

「へぇ。ご兄弟か何かです? 仲でもよかったんですか」
「そんなものだ。これはエーレンベルクのもの。そっちは……エルナンという者のものだ」



 男にとって、イドは意外にもかなり有益なものとなった。男はこの船での経験と知識が圧倒的に足りない。他の乗組員とは異なり仕事のないイドが何時でも頼ることのできる便利な生き字引となるまで、そう時間はかからなかった。
 イドの方も相変わらず男以外に認識できる者はいないらしく、件の保管庫で暇を持て余している。何か理由があって引き籠っているのだろうと思っていたが、どうやら出られないらしいことを自然と知ることになる程度には頻繁にイドと言葉を交わしていた。

「ああ、何故知らないのかと思えば。私の後に来たのか。まあすぐにもう一度乗り込んだわけではないからな」
「貴方でもいない時期があるんですね。引き籠りが住処を出るなんて」
「口だけは立派な臆病者には難しい芸当か?」

 だからと言って馴れ馴れしく肩を抱くような関係になったわけではない。ただ、互いに息をするように侮蔑し合うものの、そこに刺々しさがない程度には近しかった。
 船長の取り乱し様を目の当たりにした男は、イドについて他言しないよう心掛けている。他人に説明したところで無用に怖がらせるか疑いの目を向けられるだけで、何の面白みもない。幽霊などと他言するような人間は夢遊病患者か目を開いて寝ているかに違いないと思っていたが、実際に遭遇ししかも悪くない経験をしてみれば考え方も変わるものだった。
 幸か不幸か二人の間に大きなタイムラグがあるわけではなかったらしく、イドから得た知識が男を物覚えのいい新人に見せかけた。矢鱈と保管庫に籠る癖があるのが玉に瑕だと言われているが、その保管庫のおかげで有能になっているのだから勲章ともいうべきだろうか。
 現状に満足することもできる状況にあるが、イドが招かれざる存在であることには変わりない。流石に問答無用に追い出そうとすることはなくなったが、それでも男は穏便にイドが立ち去れるよう「未練」のようなものを探ることは諦めていなかった。

「人が何で構成されているか自ら知ることができないように、私も何故ここにいて何故ここにいなかったのか知るわけがない。考えても無駄だ、諦めたまえ」
「まぁ私も呼吸の仕方なんて知りませんからね」

 結局のところ、事態を進展させる手がかりが存在しないのである。存在しないのだから、男が現状に甘んじることも、また仕方ないことなのである。
 今日も今日とて日誌をめくる。教科書代わりにされているのは、船長室ではなくここに放置されている船長の日誌だった。男としては船長と仲がよかったというエルナンの記したものが気になるのだが、イドはあまりいい顔をしない。こっそりと抜き取ってはむさ苦しい寝室で広げているのだが、顔を顰めるくせに気に掛けているらしいイドは目ざとく毎回気づいては文句を投げつけてきた。

「そういえば、あいつが自分の目が特殊なようなことを言っていたが。何か心当たりはあるのか」
「特殊? さぁ、まだ込み入ったことまでは。あ、でも」

 他の乗組員たちがする船長の自慢話に、何やら関連する話があったような気がする。男が記憶をたどり始めると、イドは不必要に男を観察し始めた。
 男が心当たりに辿り着くよりも先に、部屋に変化が訪れる。鹿の子の声が来訪者を二人に伝えた。

「またここにいたのか」

 船長が訪れると、イドは無言で席を立つことが多い。男が人目を気にして行動できないことを十分に理解しているためか、唯一のテリトリーだというのに幽霊は所在なさげに棚の後ろや机の下に隠れようとするのだ。最近ようやく自身が透けていることに抵抗がなくなってきたのか、壁の代わりに本棚に埋もれていることもある。偶然幽霊の顔の部分にあった本を取り出し、まるで窓から顔をのぞかせているようになってしまったときは笑いを堪えるのに苦労した。
 しかし今日は何かが違ったのだろうか。イドは逆に椅子に深く腰掛けた。
 船長は決まっていつもエルナンの日誌を開く。船長とエルナンの間には浅からぬ縁があったらしく、時には向かい側に座る男の存在に気づかずひたすら読みふけっていることもあった。

「ええ。主観の混ざった報告は読み物的な面白さもあるので」
「あまり見えやすいものにばかり囚われるなよ。零れ落ちてからでは遅いからな」

 自嘲していつものように航海日誌を取り出し、船長はイドが座る椅子に浅く座った。狭い部屋だというのに四脚ある椅子は、常に二つしか使われていない。いつも男が座る椅子と、何故かイドと船長が共用している椅子だけである。
 船長にはイドの姿が見えていないのだから仕方のないことだとわかっている。それでも言いようのない何かを感じ、男はつい投げつける様に船長に問いをぶつけた。

「そういえば。この間、何か見えないならどうの、とか仰ってませんでしたっけ」
「ん? あ、ああ。言ったかも、しれないな」
「一体どういう意味なんです?」

 船長は古傷にでも触られたように顔を顰め、乱暴に髪を掻くと渋々口を開いた。本当に気が進まないようで、常に何か話題を変える切っ掛けを探していたと子供でも気が付いただろう。

「あー、クルーがこの船に神父がいらないって話してるのを聞いたことがないかな? それは私が真似事ができるからだ。昔世話になった教会で、少しばかり教わってね」
「真似事?」
「ああ。頼るものが己の勘くらいな場所では、何の機嫌も損ねられないからね。これまでもそうだった」
「だから幽霊の機嫌も損ねられないし、存在の有無を知れるだけでもってことですか」
「まぁ、そうなるね。厳密には、幽霊だとかその類が見えているわけじゃない」

 おかしな話だった。これまで平和な航海をしてきた以上、船長の言うことはまったくの出鱈目ではないと思われる。しかし、霊魂の類が見えているわけではない。イドも思い当たるものがないのか、船長の言葉を待っているようである。二人分の思いが届いたのか、もしくは好奇心をおさえきれていない顔が子供っぽかったのか、船長は苦笑しながら考えを口にした。

「恐らくだけど。未来を断片的に見ているのではないかと思うよ」
「未来を、それも断片的に? どうしてそんな風に?」
「確実に見えていたなら、犯すはずのない失敗をしたからさ。さぁ、もう詮索はやめたまえ」

 手で追い払われ、渋々席を立つ。今日はイドの話を聞けそうにもないため、既に保管庫にいる意味はほとんどない。むさ苦しい部屋にでも戻り明日の準備をしようと決めた。
 伸びでもしたのか船長の髪だけがイドの後頭部をすり抜ける。扉を閉じる間際に見た船長の髪とイドの後ろ姿は、本来ちぐはぐであろうはずなのに、何故かそれこそが本来の姿のような気がした。



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彼はかつて、筆頭航海士だった。