金の糸


 さらりと紫銀の糸が背に流れる。緩く波打ちながらも指通りのよいその髪は、誰の手にも触れられずに寝具の上に波紋を広げていた。埋もれるように沈むこの空間の主はパピュルスを片手に握りしめたままその希有な瞳を隠している。規則的な呼吸音が、微かな風の音で満たされた空間に紛れ込んでいた。

「エっレーフ!」

 勢いよく扉を開ける。大きな音が和を乱し激しく切り込みをいれたが、幸いにも目に見える変化は見当たらなかった。異分子を追い出そうと先ほどよりも一体感を増す静かな空間はまるでレオンティウスを拒んでいるようで、思わず二の足を踏む。しかしレオンティウスに無駄に捨てても咎められない時間などはなく、ならばとなるべく溶け込むようにして静かにその空間へと体を滑り込ませた。

「エレフ? ……寝ているのかい?」

 返事はない。ゆっくりと上下する肩のおかげで顔を見ることは叶わずともその呼吸がゆっくりと安定したものであることが見て取れた。幼かった面影を容易に掬いあげるその寝姿にレオンティウスは思わず目を細める。広がる髪とは対照的に小さく縮こめられたその体が描く緩やかな曲線は、その大きさだけを変えてそこにあった。
 雷神域の英雄。そう称えられたレオンティウスと彼の実父の血を受け継ぐ者として、兄妹たちは雷神の眷属と称されている。しかし彼の妹がそうであるように彼らは愛される神を選ばず、そして選べない。ただ一柱の神の寵愛を受けるレオンティウスと彼は少し事情が違っていた。その僅かな違いこそが些細であり大きくもあるレオンティウスの不安の種であるのだが、どうやら今は心配に及ばないようである。安らかなその呼気に彼の神の影を窺うことはできなかった。

「私もお邪魔しても構わないかい?」

 たゆたう紫銀を指に絡める。さらさらと逃れるように落ちてゆくそれに視線を向けながら、レオンティウスは小さく口を動かした。柔らかく静かに紡がれていく穏やかな時に色を添えるように零された声は目的地に辿り着くことなく霧散する。もちろん応える声はなく、ただ風の音が時折空間にある調度品や布を奏でただけだった。
 大きく成長した彼にすら大きく持て余された寝具になるべく音をたてないようにして転がり込む。軋む音が聞こえなくはなかったが無視しても構わないだろう。緩く握り込む彼の手をやさしく開いてパピュルスを奪い取る。名残惜しそうに指が後を追ったがすぐに沈み込んでいった。ぱさりと軽い音に反しふわりと膨らんでいた寝具を萎めさせた腕は、生死を賭けるものとして剣をたしなむ者だというのに同じ年頃の兵士よりも細く頼りなさげに見える。頻繁に目にすることは叶わないが街にいる市民たちと比べてもきっとそう変わった感想は抱けないのだろうなどとくだらない想像を描きながら、レオンティウスは彼の腕を取った。簡単に収まってしまった手に抵抗する力は加えられておらず、ただレオンティウスにすべてを委ねている。されるがままの手はまるで垂れた頭のようで、見慣れていないはずなどないのにどこか不思議な印象をレオンティウスに抱かせた。

「一体……こんな手のどこに」

 レオンティウスと彼が同じ戦場に立ったことはない。父王とは違いレオンティウスは武によって国を纏める必要がない。誇りある文字を操るヘレネスたちに考えを伝えるために矛先を向ける必要もなく、ただ皆が納得できる言葉を紡ぎ民衆同士の齟齬を少しずつ摘み取っていくことを望まれていた。
 それでも争いがなくなるわけはない。旗を掲げる者が必要なことも事実だった。そこに常ならば王でもあるレオンティウスを据えるべきなのだろうが、目立った御家騒動もない今不要なリスクを背負いレオンティウスが直々に戦場に立つ理由がない。彼に戦の才能があった上に初陣を共に飾ることができなかった以上、レオンティウスが彼と物理的な意味で戦場において背中を預けるなど叶わないことは明白だった。
 しかし、肌で知らぬとはいえレオンティウスが戦場に無関係を通しているわけではない。もちろん戦況を戦場にいないながら早く正確に知ることだってできる。最近では詩人たちの唄に市井の夢物語、お伽噺にまで登場するようになった彼が何と称えられているかを知らないわけがなかった。
 一見滑らかに見える肌には無数の小さな傷が刻まれている。深いものをすぐに見つけ出すことはできないが、それでも寄る眉を咎める者などいないだろう。日常生活でつくはずのない傷の痕をまじまじと見つめてもそれが跡形もなく癒えるわけなどない。どうせなら傷つけるための加護ではなく癒すための加護が欲しかったのだと歳甲斐もなく叫んでしまえたら、どれだけ楽だっただろうか。
 もう一度ゆっくりと望みを込めて一際長く走る傷跡を辿ってからレオンティウスは瞳を閉じた。



 彼に非などなかったことはよくわかっている。それでもエレウセウスは彼に背を向けた。
 最初の引き金は何だったのか。冗談半分に自分を王などと言いだした者だっただろうか。それとも王とは別の意味で崇拝してくれる部下たちだろうか。それとも。
 彼が今までの王たちと比べ異色であることをエレウセウスはよくわかっていた。牙を剥き他を排することで民を護ってきた王たちを知る以上現状に不安を抱かずにはいられないのだろう。今までの王たちと同じ役割を背負いながら、王になる気もなければ君臨するつもりもないエレウセウスに疑問を抱く者も多いのだろう。最近になってようやく彼とエレウセウスを認める民たちは多数派にまで上り詰めたが、すべてと言うには心もとない。すべての民から信を得られた王が如何に少ないかを知りながら、エレウセウスは彼に対し妥協するつもりはなかった。

(何がクーデターだ、)

 斬り捨ててやったとは言え不安が消え去ったとは言えない。同じような考えを起こす者がいないわけがない上に、すでにことが起こっている可能性すらあった。エレウセウスを祀り上げようとする輩の中には彼を廃させることしか考えていない連中もいる。無論簡単にのせられるつもりなどないが完全とは存在しない。警戒を怠る必要性などなかった。彼との友好的な関係を日々作り上げていくことでさえその一つくらいにしか思っていなかったはずだというのに、エレウセウスはパピュルスを握る手が拳をつくったことに気づけない。

(何が、何が)
「ソゥダ、ソノママ堕チテォィデ」

 息を呑む。しかし初めてではないその感覚にエレウセウスは諦めたように呑みこんだ息を吐き出した。力が抜け落ちる。糸を失った操り人形のように、骸と化した身体のように崩れ落ちるのをどこか他人事のように眺めていた。用意がいいのか偶然なのか身体は私室に備え付けられた寝具へと落ちていく。紫の瞳を閉ざしたまま黙すそれは限りなく死に近い場所にいながらも穏やかに呼吸を繰り返していた。

「……何の用だ」
「息仔ガ来テクレソゥダッタカラ迎ェニキタ」
「誰がいくものか」

 鼻で笑いながらも抵抗はしない。威厳も何もない冥府の王はそれをつまらなそうに見つめて肩を落とした。真っ暗な空間。どこか暖かさを含む闇が統べる空間は先ほどまでいた私室の面影はない。力を失った身体とは違い自由の効く体でエレウセウスは踵を返した。行く宛などないし帰る術もないが特筆して不安などはない。気まぐれのように現れては「愛デ」ていく冥王がまだ身近な人を「愛デ」ていく予定をもっていないことも理由の一つだろう。曰く「愛シ」てはいるそうだが、その程度なら害はないとエレウセウスは認識している。

「弱ィナァトハ思ッタケレド、ヤハリ弱カッタカ」
「弱くとも弱くなくともそこへいくつもりはない」

 冥王が誘うそこが世間一般で言う死後の世界とは少しばかり異なることを知ったのはいつだっただろうか。自慢できなければ役にも立たない知識の増加にエレウセウスは溜息をつく。抗うことは叶わないのならばせめてこの場所に来させはしない。孤独で理解など得られない戦いだろうが構わなかった。

「他ノ世界ノ息仔ハ素直ニ堕チテキテクレタトィゥノニ……」
「…………他の世界、だと?」

 初めて聞く言葉に訝しげに声を返すと冥王は注意を向けられたことに満足して頷いた。愉しげなその様子にそこはかとない悪寒を覚えながらエレウセウスは先を促す。後悔すると悟りながらも、知らぬままでいるならば更に後悔を重ねるだけだと自分を律した。

「コノ世界ハ珍シィ。数多ノ世界デ受ケ入レラレテキタ神託ヲ覆シタモノハ極少ナィダロゥ」
「神、託……?」
「何ダ、雷ノ仔ダケデナク息仔モ知ラナカッタノカ?」

 呆然としたままなんとか言葉を呑みこもうとするエレウセウスに不思議そうに冥王は首を傾げる。こともなげに告げられていくそれらは容易に受け止めるには不可解すぎて、受け流すには重大すぎた。冥王がゆっくりとした所作でエレウセウスの腰におさまる剣を指さす。双振りの黒ずんだようにも見えるそれは世にある金属のどれにも属していない、「神から賜ったもの」だった。

「ソレガ誰カラノモノダト思ッティルノカィ? 雷神ニ譲ル程殊勝ナツモリハナィトィゥノニ」
「――――っ?!」

 薄らと嫌な予感はしていたとはいえ現に突き出されてしまえば抵抗のしようがない。目を逸らしようがない自分を愛した「神」を前にエレウセウスは初めて恐れを抱いた。薄暗い何かが這い上がってくる。堅く目を閉じて、浸食してきそうなそれの視界への侵入を拒む。目視していないとはいうのにどうしてかそれが時折市街で見かける黒い影に似ている気がした。

「微温湯ノヨゥナ世界ハ居心地ガヨカッタダロゥ? ダカラ、早ク母上カラ救ッテァゲヨゥ」
「誰、が……!」

 何かが滑りこんでくる。見たこともない山奥の景色、笑い合う幼い妹の姿、見たことのある街の薄暗い風景、励まし合う幼馴染の姿、見たこともない船から望む海、何かを教え伝えてくれる師の姿、見たことのある妹のいる神殿の影……。無声映画のようだったそれらの先はとにかく負の感情が塗りたくってあるだけで、時折見えた部下のものらしき影も確信を抱く前に塗り潰されてやがては黒に染め上げられていく。堰き止める術がわからずにもがくように腕を伸ばし、最後に見えた一筋の金を掴み取った。



「………………何、だ……?」

 手に握りこんでいるのは一房の金糸。力強くしっかりとした髪質がその主の気質をそのまま表しているようで憧れたこともあった。長い自身の髪と絡まっているのはブラウンに幾筋かの金が織り込まれた長い髪。確認するまでもなくその持ち主を知るが今その人物はここにいるはずがない。もしかしてかなり長い時間呆けていたのだろうかと窓の外を見るために上体を起こす。

「……?」

 外の景色は先に目にしたものとそう変わってはいない。さすがに日を跨いでなどはいないだろうからほんの僅かな時間だったのだろう。彼が此処にいることに特に理由はなく自主休憩である可能性が跳ねあがった。どうしようもない彼にエレウセウスは喉を鳴らすようにして笑う。その目元が笑みを模ろうとしたとき、ふと唐突に違和感を抱いた。
 弾かれたように顔をあげる。特に不審な気配はない。部下や目付役が来る様子もない。ならば何が原因なのだろうか。今から起こる事象に対する危機感とは違う、まるで竪琴の弦を何本か張り間違えてしまったかのような、決定的な過去の失敗のようなものだったのだが、エレウセウスに思い当たるものはなかった。
 唐突に心細くなって握りしめたままだった金を掴み直す。今度は周りの色まで巻き込んで抱え込むように体の向きを変えた。彼の顔がすぐ頭上にきてしまうがエレウセウスの視界に直接入りはしないから構わないだろう。そのまま目を閉ざしてエレウセウスは自ら眠りの淵へと降りていった。



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この一筋さえあれば、私は、(僕は、        )