懐かしい夢を見た。
ウミネコの鳴き声で目覚めてまず頭に浮かんだのがそれだった。今では相棒とも半身とも呼べるような間柄である、イドルフリートと初めて会った日の記憶。コルテスは体を起こすこともせず、隣で眠るイドルフリートの金髪を梳きながら余韻に浸っていた。
浅いサンゴ礁の海のような瞳はまだ閉じられたままである。早くその瞳に映してほしいと思う反面、すぐに真っ赤になって逃げ出すだろうからまだ伏せたままでいて欲しいとも思う。指通りの良い髪を耳にかけてやれば、イドルフリートがその手に擦り寄って来た。頬を撫でて好きなようにさせていると、満足したのかふにゃりと笑みを浮かべる。この朝の僅かな時間に見られる無意識のイドルフリートの甘えが、コルテスは愛おしかった。
長く浸っていたいものの、ここは陸ではなく船の一室である。船の朝は早く、あまりまどろんでいる余裕はない。今日の午後には港に着けるだろうが、まだここは海の上だ。名残惜しくはあるが、コルテスは閉じられた瞼に唇を寄せることにした。
「ん……んぅ……」
「イド、朝だ」
軽いリップ音を残して唇を離すと、イドルフリートはそれを追うようにコルテスに擦り寄ってくる。胸板に顔をうずめたイドルフリートの耳に、コルテスは小さな声で囁いた。
そこでようやく目が覚めてきたらしく、少しびくりとはねたイドルフリートはゆっくりとコルテスを見上げる。まだ半分ほど閉じられた瞳はなんとかコルテスに焦点を合わせようとしているようだ。
「イド。おはよう」
「おはよ、う……コルテス?」
名を呼ぶ声は普段より少し掠れているものの、しっかりとしたものだった。あまりにも近い距離に驚いたのか、イドルフリートは目を丸くしている。状況がまだつかめていないイドルフリートの腰を左手で捕まえて、コルテスは笑みを浮かべた。右手でイドルフリートの滑らかな肌に浮かぶ赤をなぞっていく。その手が首の後ろまで辿り着いた時点で、ようやくイドルフリートの意識が完全に覚醒したようだった。
「なっ、あ、朝から何をするつもりだ……!」
「ん? イドがまだベッドが名残惜しいみたいだったからな。理由でも作ってやろうかと――」
「余計な御世話だ、低能!」
コルテスの胸板を強く押して、イドルフリートはベッドから這い出した。床に足をつけた瞬間に一度ぐらりと揺れたが、なんとかベッドの端に手をついて体を支え持ち直す。その手を離し部屋を去ろうとしたが、離すよりも先にイドルフリートの手首はコルテスに捕らえられた。
「は、離せ!」
「待て、落ち着け。裸で出ていくつもりか」
言われて初めてイドルフリートは自分が一糸纏わぬ姿であることに気がついた。頬が火照り真っ赤になっていくのがわかる。呆れているのか苦笑しているのか、それとも他の感情を抱いているのか。良くわからない瞳でコルテスに見つめられ、イドルフリートは自棄になって吠えた。
「い、いつもは着て寝ていたから忘れていただけだ!」
「ああ、ちょっと加減を間違えたからな。畜生、やっぱり朝の時間が短くなるからがっつかなきゃよかったか……」
「そうでなくとも君は自制を覚えたまえ!」
イドルフリートは自分の衣服も一通り揃えられているコルテスのチェストを乱暴に開ける。乱暴に身につけていったシャツとパンツが自分のものであるとは敢えて指摘せずに、コルテスはイドルフリートの背を見送った。
「へぇ、それが切欠なんですか」
ディアスは視線を向けるでもなく、適当な相槌を返した。海でも変わらず酒を呑んでいるというのに、どうも陸で呑む酒は味が違う気がする。それが余計に格好を崩させているのだろうと、いつも以上に酒を呑むコルテスをディアスは冷淡な目で見ていた。前後不覚になるほどまでは呑まないだろうが、うっかり暗殺でもされてしまったら非常に困ったことになる。酒を注ぐ手を止める手間を惜しんで、ディアスは見張っていればいいかと結論付けた。
「で。それがどうイドさんに繋がるんです。その娘の取り合いでもしたんですか」
話しはじめと話の内容が違ったような気がして、ディアスはそれを指摘することにした。酔っ払っている癖に、コルテスは話を聞いていなければ敏感に察知して怒る。もとが回転の速い頭な所為か、多少酒にのまれたところでその性能はあまり落ちないようだ。
(まさかこの人に限って、この程度で酔いつぶれてるってわけでもないでしょうに)
「あ? お前、話聞いてたのか?」
案の定コルテスは杯を揺らしながらディアスを睨みつけた。理不尽だと思う。イドルフリートと出逢った時の夢を見たんだ、で始まった話なのに内容は故郷で出逢った娘の話だったのだ。それ以外にどう繋げろと言うのだろう。ああ、その娘の紹介で出逢っただとか、その娘の親族だったという話なのかもしれない。しかし、それをこの少ない判断材料で察せというのはあまりにも無理な話だった。
「聞いてましたよ。人形みたいな娘に逢ったんでしょう? 一等高級な店のビスクドールみたいな」
「作りものみたいに整っていた。なのに、その凛とした空気は気高い獣みたいに生気に溢れていたんだ」
よくもまあ詩集も見ずにこんなにもつらつらと美辞麗句が並べられるものである。いっそ詩人にでもなればよかったのにと思う反面、コルテスが海に出てもらわなくては困る理由がディアスにはある。それでも海に出る理由があれば済む話なのだから、何が何でもコルテスである必要はなかったが。
呆れにも似た感心を抱いていると、何時の間にかコルテスの話は進んでいたようである。何故だかもうイドルフリートの名前が出ている。一体何時の間に現れたんだ。人の話に登場するときくらいその神出鬼没さを自重すればいいとディアスは思った。
「それで結局イドは自分で港まで辿り着いてな。俺は何もしていないのに嬉しそうに――」
「あー、すみません閣下。ちょっとその娘とイドさんの繋がりがわからないんですけど?」
一瞬むっとしたものの、余程心地よい思い出なのだろうかコルテスは仕方ないなと言いつつもどこか嬉しそうだった。口に出すだけで当時が思い出されて気分がよくなるのだろう。
「俺がいつものように関所に遊びに行っていた時の話だ。街の外ってのは子供が歩くには荷が勝ち過ぎるから、大人ばっかりが訪れていたものだ」
否そこの説明はいらない。ついでに言うと娘の描写まではごっそり切ってもらって構わない。
しかしそれを口にしてもコルテスの機嫌を損ねるだけである。ディアスは興味深そうに聞くポーズを取って、ああ今日のサングリアも綺麗な血の色をしていると注意は適当な場所に飛ばしていた。
「ビスクドールに魂を与えたらきっとああなるんだろう。そのくらい、繊細だった。髪の一筋ですら細心の注意を払って作られているように見えた。だというのに、その凛とした男装が似合うんだ。ドレスなどよりもよほど奴に似合っている。夜会で競い合う御令嬢なんて目じゃない美しさなのに、ドレスよりもトランクホーズが似合うなんて変わった奴だと思ったよ」
「それは変わってますね。せっかくの綺麗なブロンドがもったいなそうですが」
「ああ、正にあれは黄金だ。どんな女のブロンドよりも美しかったさ」
うんうんと頷くコルテスに、ディアスはそろそろ飽きはじめていた。今までも適当に聞いていて、今初めてコルテスの語る娘が男装していたことを知ったがそれでもつまらない。いつまでたっても結論が見えてこないディアスはコルテスが語っているらしいイドルフリートとの出逢いへの興味が薄れてきていた。
「港への道を探していたらしくてな。俺が案内すると言ったら笑ったんだ。小さいながらも貴婦人のように頬笑みでも浮かべるかと思えば、向日葵が咲いたように綺麗に笑うんだ。見ているこちらも嬉しくなるような笑顔でな」
港という言葉にディアスはようやく合点がいった。恐らくその港でイドルフリートと出逢ったのだろう。もしくはその道すがらで出逢ったのかもしれない。そうなるとその少女と二人は幼馴染にでもなるのだろうか。女一人に男二人の幼馴染など、世の女性が喜びそうな筋書きである。
ディアスは自分にそこそこ先見の明があると思っていたが、どうやら敬愛すべき船長と航海士の先を見るにはやや足りなかったようである。これからも何度も痛感することになるそれを改めて思い知らされることになるとは、まだ思ってもみなかった。
「何処の令嬢なんだろう、家さえ分かればこれからも仲良くしていけると思いを巡らせていたんだ」
「婚約者にでもなさるつもりだったんです?」
「奴はその笑顔を浮かべたまま俺に名を告げたんだ。それも、愛称まで教えてくれた!」
(だめだ聞いてない)
どこかでスイッチが入ったのかコルテスは急に熱中しはじめる。せっかく娘との出逢いまで話が進んだというのに、再び娘に捧げられる賛辞にまで話が巻き戻ってしまった。本格的に潰してやろうかと変化のない笑顔の下で不穏な考えが過ぎる。
「差し出してくれた手に握手を返すことが精一杯で、名乗り返すこともできなかったのにもうそれはにこにこしていてな。あれは何だ、どこへ続く、一つ答えるたびにまた笑顔が深まるんだ」
「はぁ。で、だからどうイドさんと繋がるんです」
「私がどうかしたのかい?」
(……本当に神出鬼没……)
ディアスは背後から聞こえた声に驚いた。顔には出さなかったものの気配もなく背後から近寄られては誰でも驚くだろう。酒が入っているのか少し上機嫌なイドルフリートはディアスの隣に腰かけた。
「イドさんと出逢った時の話をしてくださるらしいんですけど……」
「出逢った時? ああ、港での話か」
「あ、それは合ってるんですね」
信憑性はなかったがどうやら出逢った場所に間違いはないらしい。ディアスはまだ娘を褒め続けているコルテスは放置して、イドルフリートと飲み直すことにした。
どうやらイドルフリートにとっても悪い思い出ではないらしい。それとなくイドルフリートにコルテスから聞けなかった部分の補完を要求してみれば、イドルフリートは直ぐに口を開いてくれた。
「大きな港町でね。初めて訪れる町だったから、関所で案内を頼もうと思っていたんだよ。そこでコルテスを見つけてね」
「へぇ、そうだったんですか。じゃあ閣下がさっきから仰ってる娘に御存じあります?」
「娘?」
イドルフリートは目を丸くしてディアスとコルテスを交互に見つめた。数回往復したが思い当たる娘はいないらしく、顎に手を当てて首を傾げる。普段よりも幼げに見える仕草をしてしまうのは酒の所為もあるだろう。ディアスはそんなだから何時まで経っても「後ろ」を狙われるんだと思いながら、それを指摘するのは止めておくことにした。
「私より先にその娘に出逢ったならわかるが……。記憶違いでもしてるんじゃないのか?」
「やっぱりそう思います? 何回聞いても娘の話からイドさんと出逢った後まで話が飛ぶんですよね……」
「飛んでないだろう!」
胡乱気な目を向けられたことに気づいたのか、酔っ払いが突然ディアスとイドルフリートの間に入って来た。そのまま重力に従って落ちそうになるコルテスを二人がかりで支える。力が抜けているらしい体を支えるのは片手間にできるようなものではない。水を差された不快さを隠しもせずに二人で顔を顰めていると、コルテスは再び声をあげた。
「イド! こいつが何度言っても話を信じないんだ!」
「生憎私も君以外に娘に出逢った覚えはないが」
「俺もお前以外は見てなかった!」
「ああああそうだろうだって道すがらもあまり人と話さず……ん?」
また娘について永遠と話が続くのかと顔を少し顰めたディアスの横で、イドルフリートは違和感に言葉を呑みこんだ。イドルフリートの同意を待つコルテスと黙り込むイドルフリートを見比べて、ようやくディアスも違和感に気がつく。
「閣下。娘と出逢ったんです? イドさんと出逢ったんです?」
「そうだイド、お前はもうちょっと所作に気をつけるべきだとあの時も思ってたんだ。全く、仕草さえきちんと整えれば淑女で通るというのに――」
ああまた話を聞いていないとディアスが呆れるよりも早く、イドルフリートはコルテスを支えていた腕を離した。当然ディアスがすぐに支えられるはずもなく、コルテスはそのまま床に落ちる。
強打したらしい額を摩りながら体を起こしたコルテスの前には表情の窺えないイドルフリートが仁王立ちしている。ディアスは敢えてイドルフリートの表情は見ずに、やや正気に戻ったらしいコルテスを観察していた。
「イ、イド……?」
「そうか私は君に女にしか見えなかったかそうかそうだよなぁ……!」
抑えきれてない憤りが拳と声の震えとなって溢れているイドルフリートに、ディアスは本格的に撤退を決意した。もとより倒れ込んで自力で起き上がったコルテスに支えは必要ない。そろりそろりとその場を離れたディアスの耳に届いたのは、荒々しい足音と豪快な扉の開閉音だった。
「それでこんなトコに転がり込んできたのかい」
イドルフリートは女の艶っぽい声など気にもかけず、注がれたグラスから酒を呷った。周囲にはイドルフリートの着ていた服と娼婦が選って着そうな色っぽいドレスが散乱している。もう少し艶やかな雰囲気でさえあれば情事の後にでも見えたかもしれないが、二人を今包んでいる空気は貴婦人や娘たちが好みの服を姦しく選んでいる時のものに似ていた。
鏡を睨むようにしてドレスを選んでいるイドルフリートを視界の端に捉えながら、女は脱ぎっぱなしのシャツやコートを畳んだ。娼婦に母性を求める客はいるが、こんな求められ方はこの男以外にされたことがない。女は溜息を吐くとその艶やかな雰囲気を仕舞いこんだ。
「許せるわけがないだろう?! まぁ幼い頃はあまり男女の区別がつかないからな、それは百歩譲って許してやっても構わない。構わないが――」
「――はいはい、暗に今までずっと女扱いされてたって言いたいんでしょ」
噛みつくように吠えたイドルフリートを女は適当に遮った。
確かに海の男が女扱いを受けるなどこれ以上ない屈辱だろう。イドルフリートの憤りは最もだったが、それが正確にコルテスに伝わっているかと思えば女は失笑するしかなかった。普段阿吽の呼吸で幾多の障害を乗り越えているというのに、一度噛み合わなくなればどこまでもずれ込んでしまうのだ。きっとコルテスはイドルフリートの憤りをどこか微妙に外れた位置で捉えているに違いない。
「あの時も。も、だ! しかも淑女で通るなどと! 現在形で!」
「あーもう。はいはい。わかったから」
こんな細かい部分にコルテスは気づいていない。きっとコルテスはイドルフリートの憤りの原因が幼い頃に間違えたことだけにあると思っているのだろう。
本人に確認せずともわかるそれを呆れながら、女はイドルフリートを諌めた。うっかり焚きつけてしまえばそのまま手に持っているドレスを破り捨てられかねない。もちろんそんな事態に陥ったなら一回り高額なドレスを請求するつもりでいるが、今イドルフリートが手に持っているドレスは少し気に入っていたから出来るならば無事でいてほしかった。
「で? いっそ女になってやるとでも?」
「ふん、私を礼儀作法も知らぬ田舎者呼ばわりしたんだからな。お望み通り淑女の礼でもとってやるさ!」
お気に召したドレスを見つけたらしいイドルフリートは、手にしていたドレスを散らかった衣服から隔離して装飾品の吟味を始める。女はイドルフリートの選んだドレスを見て一つ笑みを零してから、指通りの良い髪に櫛を入れた。
「はいはい。で、私は侍女にでもなればいいのかい?」
「横に並んでいたまえ。淑女のなんたるかをご存知である閣下には、二人くらい一度に相手できるだろうからな」
「はいはーい」
宝石選びに必死になっているのか、女の適当な返事にもイドルフリートは言及しなかった。
下手な夫人や御令嬢よりも質の良い髪に妬みに近い感情を抱きながら、女はイドルフリートの髪を結い上げていく。指通りがよすぎる所為で若干纏めにくいが、羨ましい限りな悩みである。
後はピンを一つ刺すだけになったとき、イドルフリートが少しだけ俯いた所為ではらりと髪が解けてしまった。それなりに苦労して結い上げたというのに、解けるのは一瞬のことである。文句の一つでも零してやろうと女が口を開こうとすると、辛うじて聞きとれたイドルフリートの呟きが耳に入る。聞き直そうと動いた女は次にはっきりと聞こえた言葉に動きを止めた。
「……船から降ろしたいのなら、真正面から言えばいいものを」
ぽつりと零された言葉は聞こえなかったことにして、女は再びイドルフリートの髪を結い始めることにした。
イドルフリートの行方は案外直ぐに掴むことができた。
寄港する度に世話になっている娼館。艶やかな意味でも情報収集といった意味でも何度も立ち寄るそこに、イドルフリートが滞在しているらしかった。そもそもこの港にある宿に顔が効き口止めすらもできないコルテス相手に隠れ続けるなら、そこ以外に宿泊できる施設はない。目撃情報がなかったとしても、絞り込むには簡単すぎた。
「さて、どうしたものか……」
コルテスは一人娼館の前に立ち、イドルフリートがいるであろう馴染みの部屋を見上げる。ディアスを巻き込んでもよかったのだが、中々立ち回りの上手い彼を捕まえるのはまた違った苦労が予想されてコルテスは早々に諦めることにした。加えて、イドルフリートはあまり第三者を好まない。今回のように仮令娼婦とはいえども誰かを巻き込むことの方が稀なのだ。
見上げた部屋は小さな窓からしか窺えないが、何やら騒がしそうである。とても娼館とは思えない騒がしさがあり、そこにイドルフリートがいるのだと主張しているようだ。
兎も角入ってみなければどうしようもないわけである。コルテスは窓から視線を離し、扉にゆっくりと力を込めた。
「ああ、将軍。どうしたんです、昼間から」
主人はコルテスを訳知り顔でにやにやと笑いながら出迎える。仲直りに出向く息子を見守るようなむず痒い視線に背を掻き毟りたくなった。
「イ、イドは……」
「航海士さん? ああ、航海士さんならいつもの部屋にいらっしゃるよ」
出来る限り小さな声で尋ねたが、主人は笑みを深めるばかりで居た堪れなさは解消されない。確証は得たとばかりにコルテスは乱暴に数枚貨幣を叩きつけて去ろうとする。それがまた笑いを呼んだのか、主人はとうとう噴きだしてしまった。
「将軍ーっ! 部屋ひっくり返すんならまた金貨でも見つけておくれよ!」
「生憎そんな予定はない!」
学生時代の話を持ち出され、コルテスは逃げるように階段を駆け上がっていった。
「あぁら。いらっしゃいませ?」
勢いよく開け放った部屋では馴染みの女が主人とよく似た笑みを浮かべて待っていた。コルテスはその笑みに踵を返したくなるのをなんとか我慢して、扉を閉めることで自身の退路を断つ。きっとイドルフリートから事情を聞かされているのであろう。女は普段とは違う雰囲気を纏っている。どの町にもいそうな、茶目っ気のある少女のような表情で女はコルテスを手招いた。
「今日はお嬢様な気分なのよ。ねぇ、私達をエスコートしてくださらない?」
女はコルテスを部屋へ連れながら囁く。衣装こそ普段より少し露出を抑えたものではあるが、女はもう何年も体で糧を得ているのだからそうそう簡単に本来の姿を隠せるものではない。それでもこの空間には新鮮なその装いが、日の光に当たる彼女が娼婦であることを臭わせなかった。
部屋に二、散歩踏み入れたあたりでふとコルテスはイドルフリートの姿がないことに気づく。隠れているにしても気配が感じ取れず、しかし窓から見たときにはイドルフリートの存在を感じていた。部屋の中にはコルテスを出迎えた女と奥にいた女の二人の姿しかない。コルテスはイドルフリートを探しているのであって彼女たちと遊びに来たわけではないのだから、コルテスは断って部屋を去ろうとした。
コルテスの足の先が部屋の外へ向こうとしたのを敏感に感じ取ったのか、女は重ねられたコルテスの手を強く引いた。女の力とはいえ突然引かれれば多少驚くものである。訝しんだコルテスが何か言うよりも早く、女は溜息を吐いて小さな声でコルテスに告げた。
「あんたは口が回るくせに言葉に気を付けなさすぎるよ。坊やを女扱いするにしてもしないにしても、もうちょっと考えて告げな」
「な、何が……」
「坊やはずっと女扱いされたと思ってるんだよ? 本当にあんた大学まで行ったのかい」
「行ったさ。……ああ、男として悪いことをしたとは思ってる。酔っていたとはいえ――」
「ああもう。あんた本当に海の男かい」
女は心底呆れたと表情で語り、盛大に肩を落とした。そこまで落胆される謂れはないとコルテスがつい声を荒げて反論しようとすると、女はその細い指でコルテスの口を押さえる。その慣れた仕草に少しだけ冷静さを取り戻したコルテスは、無言のまま女に続きを促した。
「……本当にわかってないとはね。女ってのは船に乗れないでしょ」
「ああ。女傑もいるにはいるらしいがな」
「坊やはお役御免ってあんたに言われたと思ってるよ」
埒が明かないとばかりに早口で乱暴に告げられた言葉にコルテスは目を丸くした。全くそんなつもりはない。航海士は船長になり上がろうとする者が多く、イドルフリートのように補佐に長けた者は少数派なのだ。偶然昔馴染みであったという縁で得られたものの、みすみす手放すには惜しすぎる。だというのに女はコルテスがその手を自ら離そうとしたのだと告げた。
「何を馬鹿なことを――」
「海の男が女扱いされるってのはどういうことなのか、本当にわかって――」
「何をなさってらっしゃるのですか」
それまでただ座っているだけだったもう一人の女が、そっと女の後ろへまわっていた。やや俯いている所為で長いブロンドに隠された顔を見ることはできない。しかし、鈴の鳴るような声がその主の麗しさを物語っている。
どんな男でも耳にしただけで結婚を申し込んでしまいそうになる声だったが、コルテスはその声に聞き覚えがあった。
「……イド?」
「何方のことでしょう?」
俯いていたブロンドの女が微笑んで、今度はしっかりとその顔をコルテスに見せる。素知らぬ顔でコルテスに訊ねる女は装いも仕草も淑女そのものであったが、しかしその声と顔はイドルフリートで間違いない。見覚えのあるそのドレスに身を包んで淑やかに佇んでいるイドルフリートを、コルテスは上から下まで眺めた。
「……何やってるんだ?」
「何を仰います。場違いなのかもしれませんが、私は所作に気をつけるべきなのでしょう?」
イドルフリートはつん、とそっぽを向く。薄らと化粧もしているらしく、少し尖らせている唇はふっくらと艶を含んでいた。イドルフリートが視線を逸らしたのに合わせてブロンドがさらりと流れる。アップになっていた髪が少しだけ解け、白い項に一筋流れ落ちた。
「イ、イド……」
「……」
「しゃ、洒落にならない……」
「!」
理性やそれらしい何かが崩されてしまいそうで、コルテスはイドルフリートから視線を外していた。それが仇となったのだろう、コルテスの小さな呟きを拾い上げてしまったイドルフリートは勢いよくコルテスの頬を殴った。
数歩よろめいたがコルテスはなんとか持ち直し、殴ったであろうイドルフリートを見上げた。折角女の装いをしているのならば女らしく平手でもいいだろうに何故拳なんだとどこかずれたクレームが脳裏を過ぎる。しかし、いざイドルフリートの顔を見たコルテスは先ほどまでとは違った意味で思考がろくに働かなくなってしまった。
きっとコルテスを睨みつける目は潤みを帯びている。口は開いたり閉じたりして何かを言いだそうとはしているものの、結局音になったのは空気に溶け込んでしまいそうなほど小さなものだけだった。
「君、は……結局、私を、何だと……!」
「……」
「私、なんて……女の、か、かわりくらいに、しか」
「……イド」
「私が、海に出たい、なんて、言ったから……!」
「イド!」
零れ落ちるのを見ないために、コルテスはぐっと肩にイドルフリートの顔を押し付けた。乱暴に抱き寄せたために上げてあった髪は完全に解けてしまう。ブロンドは白い肌と真っ赤なドレスに良く映えた。
「すまない。俺は、俺はそんなつもりは全然なかったんだ」
「……どういうつもりだったんだ」
「……どんなつもりだったんだろうな。自慢、だったんだろ」
「君は、もっと他に自慢するべきものがあるだろう」
「思い当たらないな」
ひゅ、と息を呑む音がした。そしてすぐに肩に力が込められる。不格好にふらついてしまわないように少しだけ足に力を込め、コルテスはイドルフリートの髪を梳いた。
いつの間にか女の姿はない。やはり商売上場の空気を読むのに長けているらしい。全く気付いていないのだろうイドルフリートの肩が少しだけ震えているのを見ながら、コルテスは苦いような痛いようなものが胸にこみ上がってくるのを感じた。
「……言うべきことがあるんじゃないのか」
「そうだな」
「言ってみたまえ。……聞いてはやる」
「……すまない」
「本当にそう思っているのか……」
コルテスは返事の代わりに髪を梳いた。
正直なところ、コルテスは厳密にイドルフリートが怒っている理由を理解できているのか自信はない。こんな状態になるまでいつもの冗談の延長だとしか思っていなかったのだ。同じ轍を二度と踏まない保証もない。それでも、否定はできなかった。
コルテスが黙ってしまった所為でしばらく沈黙が続く。何秒だったのか、それとも何時間だったのか。短くはない間をおいて、再びイドルフリートが口を開いた。
「どうなんだ」
「……」
「反省でも、してみたまえ」
「……なんでもする」
「…………言ったな?」
「は?」
急に普段通りのトーンになった声にコルテスは呆気にとられた。嫌な予感がする。
梳いていた手を離し向き直ると、イドルフリートはにやりといつも通りの人を食ったような笑みを浮かべている。
「なんでもすると! 言ったよな!」
「あ、ああ。言った、な……?」
「よし! 言質はとった! 始めてくれたまえ!」
バタンと勢いよく扉が開かれる。先ほど見失ったこの部屋の主である女がイイ笑顔でコルセットを構えて佇んでいた。
「で、その格好ですか」
生温い視線が痛い。コルテスは呆れを隠していないディアスの隣に腰掛けて、船員たちと笑い転げるイドルフリートを眺めていた。
無駄な技術を駆使して、あの後イドルフリートと女は二人がかりでイドルフリートが着ていたドレスでコルテスを着飾らせた。装飾品から何から何までイドルフリートが身に着けていたままコルテスにそっくり装わせたのである。しかしイドルフリートのように化粧だとかいった「似合うように」する細工は一切せず、むしろ逆に男性としての肩幅の広さや骨の太さといったものをわざと強調させていた。
「なんで策略とかそういうのは上手なのに、尽くイドさんには負けるんです」
「……なんでだろうなぁ」
露出が多いわけではない。それでも隠すべき場所が隠せていないような気がしてならない。
イドルフリートが出した「なんでも」は、次の航海を女装して行えというものだった。流石に公の場や戦闘まで強いるつもりはないらしいが、船員に姿を見られている時点でいろいろとアウトである。
思いっきり肩を落とし溜息を吐くコルテスを尻目に、ディアスは騒がしい甲板を眺めた。イドルフリートは忙しなく駆けまわり、「祭」に参加していない船員を目ざとく見つけてはコルテスの有様を見せて笑わせている。
またコルテスはイドルフリートの頬が赤くなっているのも激しい運動の所為だと思っているのだろう。全く人騒がせな二人だとディアスは溜息を吐いた。
ディアスの記憶が正しければ、コルテスが着せられたドレス――つまり、コルテスの言うイドルフリートが着ていたドレスは、以前コルテスがイドルフリートのリボンと同じ色だと言って選んだものに違いなかったのである。
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