四十雀飼の妄想
額を強打した所為でくらくらと足元がおぼつかない。ともすればふらりと倒れそうになるイドを気にかけることもなく、男は犬畜生にするかのように乱暴にイドを引っ張った。
そう距離は離れていなかったような気がする。最初に男に遭遇した場所から更に一本裏道に入った辺りで、男はイドを建物の中に放り込んだ。
まだはっきりとしない意識の所為で、立ち上がるどころか満足に周囲の状況を察することもできない。とにかく、どこかの家の中の絨毯の上であるらしいことだけはわかった。
「やあ、イドくん。なかなかいい格好だね」
別の男の声がどこかからか聞こえてくる。一人、二人ではすまない量の足音が床から直接伝わってきた。
顔をあげて確認するのも億劫で、イドは横倒しになったままぼんやりと宙を見つめる。自分の声に反応がなかったことに苛立ったのか、男は不満げな声をあげた。
「いいのは格好だけ、だね。まぁ、最初は色々と準備があるからマグロの方がいいかもしれないけどね」
男が何かの合図をしたらしく、乱雑で気品の欠片もない足音が近づいて来る。どうにかしなければ、と思うものの、どこか他人事のように自分を観察しているような妙な感覚の所為でいまいち危機感が足りなかった。
無骨な手がイドの髪を掴み、無理矢理仰向けに体勢を変えさせる。肩でも掴めば楽だったろうに、と悪態を吐きながら、未だ強く引っ張られている感覚に苛立った。そこで初めて、イドは自分を取り囲んでいたものを知る。
「っ、何……」
「ああ、覚えていないのかい? 前に君が来てくれた時に君を気に入ってくれた人たちだよ。生憎、君に晒すような顔は持ってらっしゃらないそうだけどね」
ぐるりとイドを覗きこむ無数の仮面。黒と赤の羽根で目元を覆った老若男女問わない人影が、犇めき合うようにしてイドの周りを囲んでいた。
その全てが何かを手に持っているらしい。イドがいくら目を凝らしても、暗闇の所為でそれを判別することはできなかった。
「さぁさ、お集まりの皆様方! 本日のメインはこちらの駆け出し航海士! こちらでの『調節』は一切行っておりません、従順な犬にするもロデオを楽しむもよし! まずは皆様御手にとってお確かめくださいませ!」
男が楽しそうに杖のようなものを振りあげると、仮面は一斉にイドに群がっていく。慌てて後ずさろうとしたが、何時の間に取り付けられたのか四肢は絨毯を貫いて床に直接埋められている輪を嵌められて満足に動きそうもなかった。そもそも、満足に働かない思考では何処へ逃げたものか見当もつかない。
体を捻らせて金属の拘束具を五月蠅く鳴らすイドをせせら笑うかのように、仮面の男女は剥ぐようにしてイドの装束を暴いていく。鋏を手にズボンを切り開く婦人もいれば、腕力に任せてシャツを破り捨てる紳士もいた。
「っ、やめ給え、このド低能が……!」
「……思ったより力が残っていたのかな? でもお薬は楽しくないし……。ああそうだ。ねぇミシェル、イドくんにも仮面をあげていい?」
くすくすと嗤った男は隣の艶美な女から黒と赤の仮面を受け取ると、他の仮面たちをイドから少し遠ざけさせてからイドに着けさせた。他の仮面とは仕様が異なっているのか、周りを窺うことができない。元々晴れていなかった視界が完全に奪われて、ぞわりと全身の感覚がざわめいた気がした。
「ねぇイドくん。見えない方が何倍も怖くって、何倍も愉しくって、何倍も感じちゃうんだって! よかったね!」
それが合図になったかのように、少しの間イドを遠巻きに見ているだけだった仮面たちのものであろう手が、先ほどより熱を増してイドを弄り始める。心臓を耳元に置いているかのように鼓動が大きく聞こえ、冷や汗が噴き出しているのを感じた。
段々と外気に触れる場所が増えていく。最早布の感覚がするのは背中くらいなものになっている。生まれたままの姿で転がされている。耐えがたい羞恥だったが、視界を覆う仮面の下で強く目を瞑ればまだただの趣味の悪い悪夢で済まされるような気がしていた。
唇を思い切り噛みしめる。赤い液体が幾筋も顎を伝い、乾いた筋の上にまた新たに赤が伝った。
小刻みに動き過剰に息を吸おうとする胸をなんとか落ち着かせようと、意識してゆっくりと息を吐く。しかしその程度で制御できるはずもなく、吐こうとした息に逆らって呼吸が乱れた。
何が面白いのだろうか、全身がじっとりとした感覚を伝えてくる。恐らく粘膜……それも口か舌であろうその感触が走る度にイドは跳ねようとする体に力を込めた。
「見た目によらず……否、見た目通りだね。この容姿だし女は抱けなかったんじゃない?」
「だれ、が……!」
「君が、女役の方が似合ってるって話だよ」
広げられた足の間から聞こえた声に、イドは見えずとも鋭い視線を向けた。表情の変化で睨んだことがわかったのだろう、周囲から嘲笑が漏れ聞こえる。皮肉でも言ってやろうかと力み過ぎて震える口を開くが、膝の横から内股をゆっくりとなぞっていく湿った感触にイドは言葉を呑みこんだ。
「いくら金髪で目立たないって言ってもね……。毎日お手入れしてる御婦人方に申し訳なってこないかい?」
「なっ、んで……ひっ」
睾丸を裏から握りこまれ、思わず膝を曲げて後ずさろうとする。もちろん床に縫いつけられているイドが逃れられるわけもなく、勢いよく下半身が跳ねただけに終わった。
ぐりぐりと両側から挟みこみ揉まれる感触から逃れたくて踵で床を蹴ろうとするが、遊びが少ない所為で爪先が上下するだけで何の意味もない。
腹筋の力だけで僅かに起き上がり目元を隠されたまま睨みつけていたが、他の何者かによって勢いよく額を掴まれ床に叩きつけられた。喉を晒すほどの勢いだった所為か反動で背が反ってしまう。イドが意識して背を戻すよりも早く、薄い胸板に強い負荷がかかって絨毯に押し付けられた。
「痛い目に遭いたくなければ舐めるといいよ。ああ、噛もうなんて素振りを見せた暁にはその歯を一本ずつ抜いてあげよう」
言葉と共に唇に触れる何かと栗の花の臭い。呼吸を落ち着かせるために半開きになった口へ入りこんできた苦みのある液体が、それが気の所為ではないと強く主張している。
それに心当たりがないなどと初心なことを言うつもりはなかったが、それが自分へ向けられるとなると話は別である。ぐ、と勧めるように押し付けられたそれから逃げてイドは顔を逸らした。
「……そうか。私も痛いのはあまり好きではないんだがなぁ。屋根裏の旦那、先に切ってもらっても?」
「別に構わないけど……いいのかい?」
「どうせ切れるだろうから遅いか早いかの違いさ。それに、痛がってるのを見るのはいいが、自分が痛いのはごめんでね」
イドの胸に跨った男はイドが顔を逸らしたのをいいことにその陰茎を自慢の金髪と頬に挟ませて抜き差しさせている。既に白い液体に塗れていたそれの所為で金糸は水分を含まされいくつかの束を作った。男は陰茎を擦りつける場所を徐々に変え、目隠しで閉ざされた目に押し付けたかと思えば、入るはずもないのに耳へ挿れようとするかのようにねじ込んだりもした。
男の不快な行いに抱く怒りは飽和して、既にその行いを阻むこともできず自由にさせるしかない自身に対する諦めにも近い呆れがこみ上げてくる。もうこれ以上の屈辱はない、イドが全てを投げ出そうとした時、菊座に走った痛みにイドは全身を強張らせた。
「――っ?!」
「君が渋るからいけないんだよ。ああ、お客さん、どうぞ」
「ああ、ありがとう。それにしてもこの髪は気持ちいいね。手触りもいい。もう少し長ければこれを拭うのにとても役に立ちそうだ」
「そうだね。伸ばすことにするよ。これから彼はここの目玉になってもらえそうだし。……本当に慣らさなくても?」
「まぁ、少々痛みがあった方が楽しいだろう? ああ、あと足も解いてくれ」
男の申し出に「旦那」と呼ばれた男は直ぐに了承したらしい。足元の拘束がほどなくして外れ、イドは好機とばかりに逃げ出そうと足掻く。しかし上手く力が入らない上に手は大きく広げられたまま拘束されており、更に胸の上に自分の体重よりも重い重石を乗せているとなれば、逃れられるわけがなかった。
「はな、……離せ……っ」
「勿体無いことに折角一番を貰って来たのに先に出してしまってね。これからたっぷりあげるから、許しておくれ」
じくじくと痛む菊座に触れた感触に、イドは何をされようとしているのかを改めて実感した。込み上げてくるどうしようもない恐怖にがたがたと足が震える。それでもなんとか逃れようと足を動かすが、膝の裏を簡単に掬いあげられてしまう。イドは肩と首、後頭部で体を支えざるを得なくなり、ただでさえ荒れていた呼吸が更に難しくなった。
「い、やだ、いやだ、やめてくれ……!」
「じゃあ、早速」
外気に晒され血を流すだけだった菊座に思い切り力が込められる。ぐっ、と押しつけられた男の陰茎が僅かに押し入っただけで、イドは目隠しの下で目を見開き、産声にも似た絶叫をあげた。
「ちょっと五月蠅いね。口に何か入れても?」
「そうだね……これだと他のお客さんに味見させてあげる訳にもいかないし。彼の下着でも入れておこうかな。どうせ破れてて使い物にもならないし」
イドがえずいているのにも気にせず男たちは話を続けながら菊座に陰茎を押し込もうとする。髪を振り乱し我武者羅に暴れるイドの頬骨を、膝で押し付けるようにして左を向かせたまま固定した。
男のうちどちらかが吸気を求めて開閉するイドの口に布を押し付け、開いた隙に中へ押し込む。えずいている所為で意識せずともイドはそれを押し返そうとしたが、詰め込まれたまま猿轡を嵌められてしまった為に吐き気はさらに酷くなった。
「ん……? 見た目によらず、処女、なのかな?」
「あ、そうかもしれないね。一応元貴族だったそうだから」
「ほう! 血統書付か。いくらで、売りに出すのかね?」
「どうして?」
「否、他に食べられてしまう前に、言い値で買おうかと思ってね」
「残念だけど、今夜はお披露目だけだよ」
「それは、残念だ」
男の声は途切れ途切れになるものの、とても大の男を凌辱している最中の会話とは思えない。最も、イドにはそれを聞きとる余裕もなかったのだから、何の会話がなされていたところで全く関係のないことだった。
コルテスにとって船旅とは、屋敷以上に快適で開放的で昼間は潮風が心地よく夜間は星が美しい、素晴らしいものの連続だった。港で心細そうに船を見送る御婦人方のなんと大げさなことだと本気で思っていたのだが、その認識を改めるまで然程時間はかからなかった。
そもそもエーレンベルクと船旅に出るよりも先に数度船に乗ったことがあったと言うのに、何故忘れ去ってしまっていたのだろうか。疑問の正確な答えは出てこないが、恐らくエーレンベルクとの船旅が他の記憶を塗り潰してしまったのだろう。それほどまでに、彼との航海は印象的だった。
結局、イドルフリートが見つかるよりも早く航海の日が訪れた。この機を無駄にしてしまえば次に何時話が回ってくるかわからなくなってしまう。この航海を逃して、今後海に出ることが叶わなくなってしまうなど本意ではない。幸か不幸か近場の航海だったことを言い訳にして、コルテスは航海士を妥協して初めて公務として海に出た。
やはりイドルフリートの船旅を知る所為か、酷く幼稚な船旅に感じてしまう。海が荒れればその波に船は大きく揺れたし、雨雲が見えてようやく進路を変えた。別段可笑しなことはないはずなのに、イドルフリートは荒れた海も雨雲の影も目視出来ぬ間に回避していたから、こんなに航海が危険なものだと思ってもみなかったのだ。命を懸けて海に出るなどと心のどこかで船乗りを侮っていたコルテスは、その少しの航海で考えを改めた。
これではせっかく燃え上り昇華した新大陸への夢も萎んでしまう。早くイドルフリートを見つけなければ死活問題になる、とコルテスは捜索に力を入れ直した。
まだこの時は、イドルフリートの失踪が然程大きな問題ではないと思っていたのだ。どこかに国を追われたとてしぶとく生きているだろうとイドルフリートに対する信頼があったのだろう。また、最優先で探すほどの緊急性もないと驕っていたことも事実だと、今なら思い返すことができる。
特に何があったわけでもない、何の変哲もない日。時折書類の提出ついでに世間話をしていく部下が、思い出したとばかりに吐きだした言葉が最初のポイントだった。
「そうそう。閣下、ご存知です? 最近巷で娼婦を買い取るのが流行ってるそうです」
「何でまた……」
娼館にいる娼婦は確かに一夜だけを買うこともできたが、娼婦そのものも買うことができる。それを知らないわけではなかったが、コルテスは愉しげに話す部下に顔を顰めた。
昼間から下世話な話だと思ったこともある。しかし、娼婦を水揚げするにはそれなりに金がかかるのだ。流行るほどの道楽とするには少しばかり金がかかり過ぎる。その違和感の方が先にコルテスの顔を顰めさせた。
「自分の家でヤるのがイイって話だそうですよ。それに、娼婦と言ってもピンキリです」
「それこそ一夜だけ連れ帰ればいい話だろう。貴族の道楽はわからん」
「閣下も貴族でしょう……。メイドや使用人の真似ごとをさせて遊んだりするそうですよ」
「……使用人?」
「ええ」
コルテスにわざと違和感を抱かせただろうに、部下は一言返しただけだった。そのままじっと目線で問い詰めるが、あたかもそれに気づいていないかのように振舞い、あくまでもコルテスから言葉を聞くまで答えるつもりがないようだった。
コルテスがこういった話をあまり得意としていないこともわかっているのだろう。にやにやとコルテスを見守るその視線に既視感を覚える。
長く大きなため息を吐いて、コルテスは諦めたように口を開いた。
「メイドだけじゃないのか?」
「ええ、メイドだけじゃないんです」
ふふん、と満足そうに鼻を鳴らして、部下は愉しそうに笑う。コルテスの反応に満足したのだろう、先ほどとは違いコルテスの言葉を待っている素振りはなかった。しかしそれでも出来る限り勿体ぶってから、舞台で述べる口上のような体でゆっくりと声を張り上げる。
「なんと! 娼婦だけじゃなく、陰間も最近は買い取ってるらしいんですよ!」
「……予想はしたが、酷いな」
辟易としたコルテスの反応に部下は心底面白そうに笑い声をあげた。
もはや不敬などと言えた事態ではなかったが、コルテスはこの部下の暴挙を特に指摘する気になれず放置している。一々相手をするのも面倒な上、実際に上官に会う時に伴うことはほとんどない。目にするのが自分だけなら、矯正するよりも我慢してしまった方が楽だと思ったからこその判断だった。
「まぁ娼館にも限りはありますからね。大体買い取れそうな娼婦、陰間は売り切れてて、今は買い取った人からの又買いみたいです」
「又……」
娼婦は別として元々陰間に悪いイメージしか抱いていなかったコルテスも、流石にそれは不憫な気がしてきた。他人に易々と売り買いされるのは何とも気味が悪いことだろう。一夜だけではなく生殺与奪権に近しいものを売買されるなど、自身に置き換えると許せるなど到底思えないことだった。
しかし、それでも生業としてそれを選んだのだから仕方ないだろう。どこかでそういった考えがあることも事実だった。特に陰間など、男ならば女とは違いいくらでも働き口があるはずだ。わざわざそんな商売を選んだ好き物がどう扱われようと、結局は自業自得なのだろう。
「まるで人形だな」
「まぁ、人形なんでしょうね。見た目綺麗ですから、パーティとかだと箔がつくかもしれないですし?」
私も機会があれば、などと言っている部下とわかりあえる日など来ないのだろう。
話は終わりだとばかりに、コルテスはとうの昔に出来上がっていた書類束を叩きつけるように渡した。
「なんだ、コルテス卿は人形はお嫌いなのか」
残念だとでも言いたげな声が偶然イドに届いた。今の「飼い主」である男はどうやら自分で遊ぶために購入したのではないらしい。
確かにこの「飼い主」の手元に渡ってからは、昼夜関わらず細工を施して放置するという質の悪い行為を受けてはいたが、夜何かされるということはほとんどなかった。
思考が着々と染め上げられていると自覚するが、それ以上にイドは自分の耳に届いた言葉が信じられなかった。
「ええ。彼の部下の話ですからね。まず間違いないでしょう」
「そうか……。貰いもので黄金が引きかえられるかと思ったが、とんだ見当違いだったな」
コルテスなどそういない名だろう。否、いないに決まっている。彼に違いないに決まっている!
自らを奮い立たせるかのようにしてまで、イドはコルテスの名に縋った。懐かしい名だ、その名を耳にするだけで己がまだ航海士だったことを思い出す。海原を自由に駆け回った記憶がよみがえり、イドは久方ぶりに瞳に光を灯した。
「私は……」
「ん……? なんだ、この人形は喋れたのか!」
「へぇ、私も初めて知りました」
会話を止めて珍しく己を意識の範疇に入れた二人に、イドは自分の失態に気がついた。今まで敢えて母国語だけで通していたからこそ、言葉で凌辱されることは回避できていたと言うのに!
さっと顔色を失くして言葉を失ったイドに、二人はつい先ほどまでの言葉を思い出した。確か、「これ」の贈り先の話をしていたところで「これ」が言葉を発したはずだ。
二人のうちの腰の低い方がイドの顎を掴んで上を向かせる。評判だけはいい、忌々しくてたまらない長い髪が絡まることもなく流れた。
「見た目もいいですし……喋れるんですよね?」
「さぁな。しかし、顔色を見るに猿真似と言うわけでもなさそうだ」
何に満足したのだろうか、しばらくじっと左目を覗き込んだ後男は乱暴に顎から手を離す。後を追う金の髪を見定めるように眺めてから、男はもう一人の男に向き直った。
「じゃあ卿そのものじゃなくても部下で構わないんじゃないですか? 額は多少落ちるかもしれませんが、その方が足がつきませんよ」
「ああ、それもそうか……。そうだな、発覚したところで脅威にもなりえんが、少しでもリスクは小さい方がいい」
男は二人して頷くと、豪奢な装いでも隠せぬ下卑しい笑みを浮かべたまま、猫撫で声でイドに囁いた。
「閣下、この間話してたじゃないですか」
「何の話だ」
何の脈絡もなく始まった話を訝しんで顔をあげれば、話し始めた当の本人も困惑気味に奇妙な表情を浮かべていた。
コルテスは走らせていたペンを置いて、報告書を受け取りがてら話を促す。報告書は直ぐに渡したものの、しばらく間誤付いてからおそるおそる口を開いた。
「陰間の話です」
「ああ……。あの趣味の悪い話か」
「なんか、援助してくださる貴族方の間でも流行ってたみたいで」
援助って言って陰間くださったんですけど。どうします?
続いた部下の言葉にコルテスは思わず頭を抱えたくなった。嫌がらせか。嫌がらせなのか。
コルテスの心境を察したのか、部下は静かに妥協案を口にした。
「船にどうぞって言われましたけど。どうやら先方も用意した後に閣下があんまり好いていないことを知ったらしくて。勿体無いから、部下の誰かでも構わないって言われまして。一応、今私の家においているんですが」
「ああ、欲しければくれてやる」
一瞥もくれることなくコルテスは断言する。やはりその反応がわかっていたのだろう、部下は苦笑するもののそれ以上コルテスに案を求めなかった。
「いりませんよ別に。ああ、でも綺麗な男ではありましたよ。少なくともバイリンガルだそうで、それなりに頭もいいと言ってましたが」
「少なくともって何だ……。奴隷でなくともバイリンガルくらいいるだろう。奴もそうだった」
コルテスはイドルフリートが母国語で話す場面をほとんど見たことがなかった。だというのに操る言葉に違和感はなく、まだ幼かった出会った頃ですらほとんど齟齬がなかったように記憶している。結局コルテスがイドルフリートの母国語を覚える機会がなかったことが少々心残りだが、それはそのままイドルフリートを記憶の中に美しく留めておく原因にもなっていると自覚していた。
イドルフリートとの航海を既に数度語られたことのある部下は、コルテスの言う「奴」が誰なのか直ぐに合点した。目を細めて明らかに過去に思いを馳せている、といった風体のコルテスは決まってイドルフリートの思い出を漁っている。あまりに美しい記憶として残っているのだろう、彼自身はイドルフリートに会ったことがないというのに彼の美点についてはつらつらと並べられるほどコルテスは吹聴してまわっていた。
「ああ、イドさんですね」
「奴はラテン語もできた。奴の故郷では母国語の聖書が流行っていたというのに、モノ好きな奴で。ああ、今思えば海や風も読んでいたんだろうな」
あの短くも美しい髪が海原の上で太陽のように輝くのは何物にも代え難い美しさだったと、コルテスは真顔で言う。年々思い出の美化に磨きがかかっているようだが、そこでふと部下は連れて来られた男の毛色を思い出した。
「そういえば、あの陰間も金髪でしたよ」
「……別に珍しくもないだろう。俺が言いたいのは、奴の金髪が如何に希有だったかと――」
「否もうそれは充分知ってますけども。そういえばあの陰間を見たとき一瞬『イドさん』を思い浮かべたんですよね。髪も短くなくて女でもなかったですけど、閣下の言うイドさんそっくりで」
そこでコルテスは微妙に違和感を覚えた。部下の描くイドとコルテスの思うイドルフリートが微妙に違う気がしてならない。少し考えを巡らせてから、コルテスは飾ることもなくその疑問を口に出した。
「奴は男だぞ?」
「……は?」
ぽかんと口を開けた部下は心底意外だったとでも言いたげにコルテスを見やった。
意外なのは自分の方だとコルテスは一人内心で呟いた。何をどう聞いたらイドルフリートが女に聞こえるのだろうか。そもそも、イドルフリートのような女など行動的で攻撃的で、余程の男でないと手綱を握ることなど不可能だろう。
しかし部下は信じられないものを見るような目でコルテスを見据え、戸惑いながら思ったことを口に出した。
「てっきり、初恋の君かと思っていました……。確かに、女で海に出るなどと、とは、思っていました、が……」
「奴が初恋?! 俺のか?!」
「は、はい……」
コルテスは思わず椅子から立ち上がり、その勢いで椅子を倒してしまった。そしてそのまま言葉を続けようとして固まってしまう。冷静に思い出を洗い直して、初恋である要素は見つからなかったものの初恋ではない要素が見つけ出せなかったのだ。
動揺しころころ顔色を変えていることを自覚していないらしいコルテスを見て、部下は更に動揺した。嗚呼、気づかないでいいことを気づかせてしまったのかもしれない。
「ま、まぁ。そっくりさんって世に三人はいるって言うじゃないですか!」
「何をわけのわからないことを言っている! このド低能が!」
無理矢理話を切り上げて逃げ出す部下に、コルテスは噛みつくように吠えた。
こつり、こつりと足音が近づいて来る。三人分の足音。一人は今の――否、以前の飼い主のものだ。もう一つは知らない。しかし、最後の一つには確信があった。
彼だ、彼に間違いない。久方ぶりに聞くと言うのに間違えるわけがないという根拠のない自信すら湧いてくる。
最後に自由だった記憶。最後に夢を託した記憶が鮮明に蘇ってくる。まるで走馬灯のようだと自嘲しつつも、イドはともすれば駆け出してしまいそうな自分に動揺していた。まるで初めて海に出た時の、船を待つ時の高揚感。目先のことに囚われて、しかし馳せるのは遠い未来への憧れで、浮足立って仕方がない感情。もう数年感じていなかった感情の変動に、イドはまるで別人になったかのような気分だった。
何故だかここ最近イドの待遇が更に良くなっている。繋がれて慰み者にされる以外ほとんどなかったと言うのに、放置どころか髪以外の手入れもきちんとされて、相変わらず人形扱いではあったが若干穏やかな目線や優しい手つきで触れられることが多くなった。原因は恐らくつい口走ったエスパニア語だろう。目に見えてその日から待遇が変わった。貢物にでも仕立て上げられているのだろうことはわかっていたが、たとえその途中、運ばれる間だけでも、否、彼とすれ違えるだけであってもイドにとっては関心を向けることではない。イドの中に残る唯一の光とも言える存在が近くにある、ただそれだけで十分だった。
以前の自分では考えられない殊勝さに、イドは胸を高鳴らせながら嗤った。もしかしなくとも、あまりに劣悪な環境の所為で落ちぶれてしまったのだろう。かつての高い矜持は何処へ消え去ってしまったのか。しかしそれすらも頭の片隅に置いておく必要性も感じなかった。
イドはただじっと下を向いている。顔をあげ辺りを見回したくなる衝動を必死で抑えて、イドは足音を数えていた。
「ええ、はい。それはもう見事な金髪ですよ。くすみ一つない、黄金のような髪です」
「黄金を探しに行く船なのだから、これのような者が似合うと思いましてな」
声は二つ。コルテスのものはない。偶々進路が同じだっただけなのだろうか。
しかしその方がよかったのかもしれない。過去の記憶に縋り高揚していた気持ちが萎んでいく。いくら過去が美しいものであれ、今のイドは「美しいもの」ではない。過去に繋がるコルテスにそれを知られてしまえば、美しかった過去が破り捨てられる可能性もある。落ちぶれた自分を見られずに済んだと思うべきなのだろう。
足音が一瞬止まり、扉の開く音がする。顔をあげることは許されないから、まだ足元すらも見えない。やがて三つあった足音のうち、二つだけが近づいて来るのがわかった。
嗚呼、やはりコルテスは偶然近くに用があっただけなのだろう。もしかすると、幻聴だったのかもしれない。
誰かにイドを譲ると告げた元飼い主が鎖を引く。傷がつくからという以前では考えられない理由でシャツの上にかけられた鎖が鳴り、少しだけイドの顔が上げられた。
「どうかね。綺麗なものだろう?」
「そうですよね、男とは思えないくらい。……閣下、何してるんです。これですよ、イドさんに似てるっていうの」
「……は?」
知らぬ男の口から自分の名前が出て、イドは思わず男を見上げた。幸いにも男の視線は部屋の外へ向けられている。やはりその男に見覚えはなかった。しかしイドという名もしばらく誰にも告げていない。一体何故、と思うよりも先に、男が答を齎した。
「コルテス閣下! 何呆けてるんですか!」
「イ、ド……?」
「……っ?!」
思わず上げた顔を上から強い力で押さえつけられる。一瞬だった上に長く纏わりつく髪が邪魔でよく見えなかった。しかしこの声は間違いようがない。
何かを感じ取ったのだろう男は敢えてコルテスに道を譲ることはせず、イドを押さえつける手をそっとたしなめるように離させながら口を開いた。
「伯。こちらが例の、譲っていただけると言う者ですか?」
「あ、ああ。そうですな。私たちの友好の証だ」
「ええ。友好の」
畳みかけるようににっこり笑った男は、追い立てるようにして元飼い主と部屋を出ていった。部屋の中には距離を測りかねた二人だけが残る。遮るものがなくなって、イドは恐る恐る顔をあげた。
呆然としたまま口を開けるコルテスは、中々間抜けな面を晒していた。見開いた目は真直ぐにイドに向けられている。嗚呼、彼だ。あんなにも感情が高ぶっていたと言うのに、何故だかすとんと落ちてくるように自然と受け入れられた。
「……髪、伸びたんだな」
「最初に言うことがそれか、この低能が」
髪に触れようとする手を叩き落とし、イドは呆れを浮かべながら改めてコルテスを見る。くしゃりと歪んだ顔を見てはいけないような気がして、イドはそのまま視線を外した。
「何で今まで言ってくれなかった」
「言えるわけがないだろう」
「少なくともお前が直ぐに言ってくれていたら! 一人食い扶持が増えたくらいで、俺が傾くとでも思ったのか!」
「だから、私が。言うわけがないだろう? 君のような低――」
「――こんな状態に一人で陥ったお前の方が余程低能だ!」
空気が震えたのだろうか。反響の残滓を感じながらイドは顔を向けぬまま目を瞬き、なにか暖かいものと冷たいものが込み上げてくるのを感じた。コルテスが向けてくる感情がわかるからこそ、それが嬉しくもあり惨めでもあった。やはり出会わない方がよかったのかもしれない。出会わなければ、「コルテスの旧友」がこんな地に落ちた存在になり果てはしなかったのだろう。
叫んで少し落ち着いたのか、コルテスは深く息を吐いてから目線をイドの位置まで下げるために床に腰を下ろした。綺麗に整えられた服とみすぼらしいただの布のような服が並ぶ。触りやすい位置にあるからだろうか、またも髪にのびたコルテスの手をイドは嫌そうに払い落した。
「私は、君が触れていいようなものじゃない」
なるべく尊大に、見下ろすように。そうすればコルテスはこのみすぼらしいものを捨てていけるから。イドは自分の歩まされてきた途がコルテスに耐えられるものでないと知っていた。そして、コルテスが見捨てることができるほど非常な人間になりきれていないだろうことも知っている。紙を開いてこれに包まれているものは塵なのだと教えてあげなければ捨てられない、大きな子供なのだ。
ぐらぐらと揺らぐ内心を抑え込むことに必死になっていると、コルテスがイドの顎を掴んで向きを変えさせた。思ったより近くにあったその顔に、イドの肩が勢いよく跳ねる。久方ぶりに真正面から見た顔は真直ぐにイドの瞳を射抜いていた。
「俺が触れるものは、俺が決めて何が悪い」
嗚呼、そうだ。こいつは良くも悪くも訳が分からない男だった。
コルテスが連れてきた長い金髪の男に、船員たちはみな一様に目を見開いていた。コルテスが男娼を船に連れ入れたと奇異の目で見る者もいたが、ほとんどがその容姿に聞き覚えがあり過ぎたのだ。
太陽を閉じ込めたような輝く髪、草原のような鮮やかで希有な瞳。その唇から零れ落ちるのは富に富んだ教養に彩られた数多の国の言葉。海と風と戯れるようにしていともたやすく庭のように海を駆け抜けた航海士。夢物語でも諳んじるかのようにコルテスが船員に言い聞かせた「イド」そのものが現れた。
いくらなんでも讃えすぎだと苦笑していた船員たちもただコルテスの連れてきた男に見入っていた。まるで一目惚れした間抜けな男のように、全員が全員動きを止めている。
しかし船員たちの注意は、その男への褒め言葉でもコルテスに向ける言葉でもなく、ただその性別に向けられていた。
(ああ、そう思ってたよな。あれは閣下が悪い)
コルテスとそれなりの付き合いになる男は彫像のように固まった仲間たちとどこか自慢げなコルテス、そして諦めたように視線を逸らすイドを順番に眺める。
正直まだ男はこの陰間が「イド」だとはあまり信じていない。コルテスの旧友であることはこの際どうでもよかった。仮にコルテスの記憶にある頃は、コルテスの言う通り神がかった航海技術を持っていたとしよう。しかしもう何年も男娼の地位に甘んじていたこの男が、あの御伽噺のように船を操る技術など持ち合わせているはずがない。下手に過去の栄光に縋って口出しされてはかなわない。
けれどコルテスの機嫌を損ねる訳にはいかない。この扱いが厄介すぎる客人のような男娼が、このまま慰み者となってもらうか早々に海の厳しさに揉まれて消えてしまえばいいとすら思っている。だというのに、それを表に出すことは許されないのだ。全く面倒なことである。
誇らしそうに彼こそがイドだと船員に紹介するコルテスと歓待してみせる船員たち。彼らとの間に男はどうしようもない温度差を感じだ。この船には先を見る者が少なすぎる。こんなもの未来とも言えぬような先に結果が見えているではないか。顔には出さずさてどうやって騒動を収めようかとまで考えを巡らせていると、ふとその騒ぎの輪に加わっていない主役と目があった。
コルテスは陰間の自慢に必死になり過ぎて、陰間そのものはとりあえず放置しているらしい。初めて見た時よりも心なしか顔をあげている時間が長い気がする。イドと呼ばれた金の陰間は男に向かってすまなさそうに苦笑を浮かべた。たくさんの貴族に飼われていただけあって自分の扱われ方を心得ているらしい。しかし、この浮足立った船の中で己の味方はこの陰間だけなのかと情けない気分になった。
「すまないな。なるべく早く降りるようにする」
「……閣下の気が済むまでならいつまでもどうぞ」
「ああ、頃合いを見て追い出してくれ」
なんとも不思議な会話だ。厄介者に変わりはないが、なかなかこの陰間とは話が合うのかもしれない。主に他の船員たちの騒がしさという情けない話題になるだろうが。
「ロデレロのディアスです。長くはないと思いますが、よろしくお願いします」
「イドルフリート・エーレンベルク。イド、と呼んでくれたまえ」
ベルク。帝国の生まれなのだろうか。陰間の割に姓を持っているとは。転落した者なのだろう。ディアスはイド、と口の中で転がしてから無感動に握手のようなものを交わした。
そこでふと可笑しなことに気がついた。読み書きを習うだけでも大変なのだ。なのに、この男は何処の言葉で話しているのだろう。ネイティブと言うにはやや上流階級染みた言葉に、ディアスは男に興味を抱いた。
「あれは本当だったんですかね……」
「あれとはなんだ?」
「閣下の、母語や異国語ラテン語に限らず海や風まで読み解いたって話です」
ごつい体格から零されたロマンチックな言い回しに男が思わず噴き出していた。口元を押さえて肩を震わせている。確かに「イド」の賛美を聞き慣れぬ頃は笑いをこらえるのに苦労したものだ。あまりに真剣に並び立てるが故に直ぐに慣れたものだったが、初めから男に向けられていたものだと知っていればもうしばし時間がかかっていたことだろう。
「それは、私の、話か……!」
「ええそうですよ。羞恥心を鍛える訓練になるかもしれませんね」
「くくっ、……違いない!」
可笑しそうに涙目になりながらも男はまだ笑い続けていた。目尻から溢れそうになっていることも気に留めず、男は笑っている。
船に害がなければ、新大陸へ行く積荷が一つ分くらい増えてもいいのではないかと、不覚にもそう思ってしまった。
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